「櫂」の同人として出発し、戦後屈指の女性詩人として活躍された茨木のり子さんが亡くなったのは、2006年のこと。
死亡をつたえるあの新聞記事を眼にとめてから、すでに5年余が過ぎ去っている。
光陰矢のごとし・・・というほかない年月(としつき)をへて、昨日、一冊の本とめぐりあった。今日はその本の紹介。
わたしは高校生のころから詩を書きはじめ、「現代詩手帖」「ユリイカ」にさかんに投稿し、たまに選に通って掲載されたりなどしていた。
大学時代は、瀬尾育生、清水哲夫(鱗三)らと、同人誌「夜行列車」を結成し、いっぱしの詩人のつもりで詩を書いていたものであった。
その後、わけあって、筆を折ってしまい、詩集は一冊も出していない。
しかし、詩とのつきあいを完全には断つごとができず、その後もなんとはなく、甘っちょろい恋愛詩のようなものをノートに書いたりしてきた。
mixi日記をふりかえると、5月18日に、自分が撮影した一枚の写真を眺めていたら、なんとはなしに、「白い椅子のある風景」という詩が、すらすらと生まれてきたのには、驚いた。
そのあとも三編の詩が、指先からしたたり落ちるように、生まれてきた。
書いた・・・というより、わたし的な意識では、自然と生まれてきたといったおもむきが強い。
それで「そうか、詩があったな」と気をとりなおし、以降、本屋へいくたび、詩のコーナーをのぞくようになった。十年ぶり・・・いや二十年ぶりに(^^;)
そして、何冊かの詩集やアンソロジーを買い、人が書いた詩をぱらり、ぱらりと読んでいる。
わたしはこれまで、吉野弘さんや、茨木のり子さんのよき読者ではなかった。
生意気盛りだった若いころは「いかにも小市民的な喜怒哀楽をつづっただけの、やや古くさい、凡庸な抒情詩じゃないか」と評価していたからである。
「櫂」に集まった詩人の中では、大岡信さんと、谷川俊太郎さんのファンだった。とりわけ、谷川さんは、現代日本を代表する詩のプロフェッショナルだと感じていたので、とぎれとぎれにではあるものの、ずっと追尾してきた。
前置きが長くなったが、ここからが今日の本題。
「茨木のり子の家」(平凡社 1800円税別)という本のことである。
『このたび私○○○○年○月○日、○○にてこの世におさらばすることになりました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀、お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔意の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返礼の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬、思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにしてくれましたことか・・・。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。
ありがとうございました。
○○○○年○月○日』
そうか、子どもはいなかったのだな、とわたしはこのとき、はじめて知った。
いまこのことばを書き写しながら、不覚にもやっぱり、涙がこぼれた。
医師だった夫にはやく先立たれ、そのあとはひとり暮らしだったのであろう。
彼女が静かにこの世を去ったあと、残されたのは、何冊かの詩集と、一棟の家。
そして、生前には一切発表しなかった、「Y」と題された、一群の詩編である。
そういうことも、この本で知ったのである。
「Y」を書いていることは、周辺の人には知られていたようだが「あれは亡き夫への恋文なので、人さまには見せられない」といっていたらしい。それは彼女の死後、「歳月」という詩集にまとめられている。よき読者ではなかったものの「根府川の海」「見えない配達夫」「わたしが一番きれいだったとき」などの代表作は、しっかりと記憶に刻まれて、茨木のり子というと、これらの詩編を思い出す。
彼女はこんな家に住んでいたのである。
わたしが詳しく紹介しすぎると、かえって興を殺ぐことになるだろうから、
紹介文はひかえめにしるしておく。
子どものいない、ひとり暮らしの老人は、この世にいくらでもいる。
彼女ひとりが、孤独だったわけではない。
鴎外の遺書や、荷風の孤独死。須賀敦子のエッセイ群。
そこに、一冊の本がくわわった。
遠くうしなわれようとしているなつかしい昭和の人と、ことばと、その人たちが暮らした風景。
一冊の本にめぐり逢って、わたしはいま、この茨木のり子さんや、吉野弘さんについて、その後ろ姿をたどるように歩いてみたくなっている
死亡をつたえるあの新聞記事を眼にとめてから、すでに5年余が過ぎ去っている。
光陰矢のごとし・・・というほかない年月(としつき)をへて、昨日、一冊の本とめぐりあった。今日はその本の紹介。
わたしは高校生のころから詩を書きはじめ、「現代詩手帖」「ユリイカ」にさかんに投稿し、たまに選に通って掲載されたりなどしていた。
大学時代は、瀬尾育生、清水哲夫(鱗三)らと、同人誌「夜行列車」を結成し、いっぱしの詩人のつもりで詩を書いていたものであった。
その後、わけあって、筆を折ってしまい、詩集は一冊も出していない。
しかし、詩とのつきあいを完全には断つごとができず、その後もなんとはなく、甘っちょろい恋愛詩のようなものをノートに書いたりしてきた。
mixi日記をふりかえると、5月18日に、自分が撮影した一枚の写真を眺めていたら、なんとはなしに、「白い椅子のある風景」という詩が、すらすらと生まれてきたのには、驚いた。
そのあとも三編の詩が、指先からしたたり落ちるように、生まれてきた。
書いた・・・というより、わたし的な意識では、自然と生まれてきたといったおもむきが強い。
それで「そうか、詩があったな」と気をとりなおし、以降、本屋へいくたび、詩のコーナーをのぞくようになった。十年ぶり・・・いや二十年ぶりに(^^;)
そして、何冊かの詩集やアンソロジーを買い、人が書いた詩をぱらり、ぱらりと読んでいる。
わたしはこれまで、吉野弘さんや、茨木のり子さんのよき読者ではなかった。
生意気盛りだった若いころは「いかにも小市民的な喜怒哀楽をつづっただけの、やや古くさい、凡庸な抒情詩じゃないか」と評価していたからである。
「櫂」に集まった詩人の中では、大岡信さんと、谷川俊太郎さんのファンだった。とりわけ、谷川さんは、現代日本を代表する詩のプロフェッショナルだと感じていたので、とぎれとぎれにではあるものの、ずっと追尾してきた。
前置きが長くなったが、ここからが今日の本題。
「茨木のり子の家」(平凡社 1800円税別)という本のことである。
『このたび私○○○○年○月○日、○○にてこの世におさらばすることになりました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀、お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔意の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返礼の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬、思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにしてくれましたことか・・・。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。
ありがとうございました。
○○○○年○月○日』
そうか、子どもはいなかったのだな、とわたしはこのとき、はじめて知った。
いまこのことばを書き写しながら、不覚にもやっぱり、涙がこぼれた。
医師だった夫にはやく先立たれ、そのあとはひとり暮らしだったのであろう。
彼女が静かにこの世を去ったあと、残されたのは、何冊かの詩集と、一棟の家。
そして、生前には一切発表しなかった、「Y」と題された、一群の詩編である。
そういうことも、この本で知ったのである。
「Y」を書いていることは、周辺の人には知られていたようだが「あれは亡き夫への恋文なので、人さまには見せられない」といっていたらしい。それは彼女の死後、「歳月」という詩集にまとめられている。よき読者ではなかったものの「根府川の海」「見えない配達夫」「わたしが一番きれいだったとき」などの代表作は、しっかりと記憶に刻まれて、茨木のり子というと、これらの詩編を思い出す。
彼女はこんな家に住んでいたのである。
わたしが詳しく紹介しすぎると、かえって興を殺ぐことになるだろうから、
紹介文はひかえめにしるしておく。
子どものいない、ひとり暮らしの老人は、この世にいくらでもいる。
彼女ひとりが、孤独だったわけではない。
鴎外の遺書や、荷風の孤独死。須賀敦子のエッセイ群。
そこに、一冊の本がくわわった。
遠くうしなわれようとしているなつかしい昭和の人と、ことばと、その人たちが暮らした風景。
一冊の本にめぐり逢って、わたしはいま、この茨木のり子さんや、吉野弘さんについて、その後ろ姿をたどるように歩いてみたくなっている