
(この看板を撮影した直後、視線の考古学ということばが思い浮かんだ)
世のアマチュアカメラマンは、ネイチャーフォトを被写体に選ぶ人が、圧倒的に多いのではないだろうか?
わたしのように、散歩写真、キャンディッドフォトをやっている人はごくまれである。
小中学生のころから、考古学にはある程度関心があった。遺跡を掘って、埋蔵文化財を発掘し、年代を測定したり、当時の生活を再現したりするのは、さぞ興味深いことだろう、と。
われわれが所有している時間は、過去と現在だけ。
現在もあっという間に、つぎつぎ過去になっていく。“現在”なんて、薄っぺらい紙のようなものだ。
そんな思いを胸にかかえて写真を撮っていると、古いもの、古くからそこにあるものが気になってくる。




古くさいものは、古くさいだけで価値がさがる。
しかし、その一方では、滅びの美学ではないが、妙にフォトジェニックに見えてくるものが、埋もれていたりする(*_*)
「あっ、時間が凝縮しているぞ、ここに・・・」
おれを見ろ、あたしを見て! ゴミではないんだ、まだ。
それらが、しめす幽かな訴求力。
ごくプライベートな、化石、遺跡に近い何かが、わたしの眼を風のように撲つ。




ああ、そうだな・・・年代記にはしるされることはないが、この数十年、いろいろな出来事があったのだ。
“もの”たちは、浮かんだり、沈んだりしている、時間という大波小波のあいだで。
自然ではなく、人が何らかの意図があってつくり出したものは、すべてそれなりの健気さを持って、滅びへの階段を、ゆっくりとおりていく。
それはある意味、彼らの後ろ姿であるだろう。
わたしがこれまで書いてきた「後ろ姿のエレジー」に通い合うものが、そこはかとなくただよっている。
「いつまでそこにいるの?」
「そのあとは、どこへいくの?」
わたしは親しかった人の後ろ姿を見送るつもりで、これらを記録し、記憶していく♪
これらをこの世に生み出した人の心を想像しながら。
世のアマチュアカメラマンは、ネイチャーフォトを被写体に選ぶ人が、圧倒的に多いのではないだろうか?
わたしのように、散歩写真、キャンディッドフォトをやっている人はごくまれである。
小中学生のころから、考古学にはある程度関心があった。遺跡を掘って、埋蔵文化財を発掘し、年代を測定したり、当時の生活を再現したりするのは、さぞ興味深いことだろう、と。
われわれが所有している時間は、過去と現在だけ。
現在もあっという間に、つぎつぎ過去になっていく。“現在”なんて、薄っぺらい紙のようなものだ。
そんな思いを胸にかかえて写真を撮っていると、古いもの、古くからそこにあるものが気になってくる。




古くさいものは、古くさいだけで価値がさがる。
しかし、その一方では、滅びの美学ではないが、妙にフォトジェニックに見えてくるものが、埋もれていたりする(*_*)
「あっ、時間が凝縮しているぞ、ここに・・・」
おれを見ろ、あたしを見て! ゴミではないんだ、まだ。
それらが、しめす幽かな訴求力。
ごくプライベートな、化石、遺跡に近い何かが、わたしの眼を風のように撲つ。




ああ、そうだな・・・年代記にはしるされることはないが、この数十年、いろいろな出来事があったのだ。
“もの”たちは、浮かんだり、沈んだりしている、時間という大波小波のあいだで。
自然ではなく、人が何らかの意図があってつくり出したものは、すべてそれなりの健気さを持って、滅びへの階段を、ゆっくりとおりていく。
それはある意味、彼らの後ろ姿であるだろう。
わたしがこれまで書いてきた「後ろ姿のエレジー」に通い合うものが、そこはかとなくただよっている。
「いつまでそこにいるの?」
「そのあとは、どこへいくの?」
わたしは親しかった人の後ろ姿を見送るつもりで、これらを記録し、記憶していく♪
これらをこの世に生み出した人の心を想像しながら。