(2019年5月 高崎市)
最初の一行が大事なのだ。その一行がつぎの一行をつれてくる。
それは霊感のようにやってくる。
昔なら原稿用紙に向かったとき、いまならパソコンの画面を前にしてキーボードに向かったとき。
もちろん失敗することもある。わたしの場合は、半分近く失敗する。その場合、つぎの一行が指先からしたたり落ちてこない。五~六行で立ち往生、あるいは十行以上書いたのにボツ。
その判断は、読者としてのわたしが下す。
規範があるようでない。非常にアバウトなものである。
完成したといっても、その直後はおもしろいのか、おもしろくないのかさっぱりわからない。一日、二日たつと、ややわかってくる。しかし、ほんとうは一週間二週間と時間がたった方が、書いた作品の姿がよく見える。完全に他人になりきって読むことはできないにせよ、ほぼ他人になりすまして読むことができるようになっている。
そこで「完成した」という判断を下し、タイトルを見直し、あらためて推敲する。このとき、削除したり、書き足したりすることもある。
ものを書いたりつくったりする人のなかには、ブルックナーのように、「永遠に完成しない」というケースも存在する。その場合、つくりだした作品が、あまりに巨大なので、その全貌が把握しきれないからではないかとわたしは思う。
詩人では宮沢賢治のように、とてつもなく長い詩を書いている人がいる。おそらくは書きっぱなしで、読み直しや推敲はほとんどといっていいほどしてはいないだろう。推敲してよくなるものもあるが、その逆に悪くなるものもある。「業の花びら」はよくなった作品の典型だといえる。
ことばは指先からしたたる汗だといったが、「へええ、こんなこと考えていたのか?」と驚くなんてことが、しばしば起こる。
人間の意識の80%~90%は無意識に属するそうである。書いているときの「わたし」は夢遊病者に近いのかもしれない。考え込んだり、意識的にふるまったり、推敲しすぎたりすると、詩はつまらなくなる。
その案分が一番むずかしい。
「アハハ、こんな詩が書けたよ。うーむ」
完成したと思った作品に、一読者として向かい合う。
ことばからことばへの綱渡り。
どちらかといえば、短い詩の方がインパクトがあっておもしろい・・・と最近は思う。長く書こうとすれば、ほころびが見えてくる。「ここは別なことばと差し替えよう」
「つまらねえレトリックだな」
「ありゃ、どこかで読んだような詩句じゃねえか」
そういったいわば邪念が、つぎつぎ湧き起こるのだ。短歌や俳句ほどは短くはならない。そんなに短くていいのであれば、現代詩を書かず、短歌・俳句を書けばいいのだから。
桑原武夫さんの「第二芸術論」ではないが、いまの時代、短歌・俳句で個性を発揮するのは至難である。一作、二作では、作者の名がなければ、だれが書いたものかわからない。十作の連作のような形をとれば、「ははあ、だれだれの作品だな」と見当がつく。
詩の作者と批評家は、しばしば分かちがたくむすびついている。よくいわれることだが、すぐれた詩の作者は、すぐれた批評家をかねている。
作品は、作者本人とは違うので、子どもと同じく、違った運命を背負っている。どんな立派な本にして世の中に送り出したとて、またたくまに消えてしまうのが大部分。自費出版の大方は、そういうクズ(?)だとかんがえて間違いではない。
なかにはカフカように、宮沢賢治のように、死後望外の成功をおさめるもがあるが、それは例外中の例外に属する。わたしが書いている詩は、わたしが消えるとともに、消えてゆくだろう。
世には「文学賞」なるものが掃いて捨てるほど存在する。しかし、あとに残って読まれつづけてゆくものがどれほどあるか?
それを決めるのは、未来の読者ということになる。
むろんはやりすたりはある。はやっていたものがすたれ、すたれていたものがまたはやってくる。興亡はたえずくり返される。文庫本の絶版・廃版、再版・復刊リストを眺めていると、そういう動きが見えてくる。上限はほぼ決まっているので、そのなかでの攪拌ということになろうか。
どれほど有名な賞をとろうが沈みっぱなしの作品がある一方、つねにトップの一群を走りつづけるロングセラーもある。
小説もそうだが、詩も、読者が読むことで、そのとき読者のいわば心のなかでだけ成立する。芸術作品としての音楽も同じ。違うとかんがえるなら、その名作なり、名詩なりを、飼い猫にでも読み聞かせてみればいい。「ふん」と鼻先であしらわれる。
・・・というのはまあ、ジョークだとしても、小説なり詩なりを読む習慣のない人にすすめてみたらどうだろう。レセプター(受容体)がなければ、字面は理解できても、その奥にしまわれた意味については、なんの反応も起こらない。
心のなかでだけ成立するとは、そういうことである。
詩は読む人によって、極端にいえば千変万化する。
日本語の読めない人にとっては、紙の上の黒い染みだろう。そういうことからいえば、詩は母国語の内部に閉じ込められている。小説なら翻訳してもその価値が減ずることは少ないが、詩の場合は、ほぼ絶望的。
残念ながら、現在書いている詩はわたしと運命をともにする。
けれども、詩を書いている「わたし」は、以上のようなことを踏まえて、しかも、目下詩を書かずにはいられないのである。
最初の一行が大事なのだ。その一行がつぎの一行をつれてくる。
それは霊感のようにやってくる。
昔なら原稿用紙に向かったとき、いまならパソコンの画面を前にしてキーボードに向かったとき。
もちろん失敗することもある。わたしの場合は、半分近く失敗する。その場合、つぎの一行が指先からしたたり落ちてこない。五~六行で立ち往生、あるいは十行以上書いたのにボツ。
その判断は、読者としてのわたしが下す。
規範があるようでない。非常にアバウトなものである。
完成したといっても、その直後はおもしろいのか、おもしろくないのかさっぱりわからない。一日、二日たつと、ややわかってくる。しかし、ほんとうは一週間二週間と時間がたった方が、書いた作品の姿がよく見える。完全に他人になりきって読むことはできないにせよ、ほぼ他人になりすまして読むことができるようになっている。
そこで「完成した」という判断を下し、タイトルを見直し、あらためて推敲する。このとき、削除したり、書き足したりすることもある。
ものを書いたりつくったりする人のなかには、ブルックナーのように、「永遠に完成しない」というケースも存在する。その場合、つくりだした作品が、あまりに巨大なので、その全貌が把握しきれないからではないかとわたしは思う。
詩人では宮沢賢治のように、とてつもなく長い詩を書いている人がいる。おそらくは書きっぱなしで、読み直しや推敲はほとんどといっていいほどしてはいないだろう。推敲してよくなるものもあるが、その逆に悪くなるものもある。「業の花びら」はよくなった作品の典型だといえる。
ことばは指先からしたたる汗だといったが、「へええ、こんなこと考えていたのか?」と驚くなんてことが、しばしば起こる。
人間の意識の80%~90%は無意識に属するそうである。書いているときの「わたし」は夢遊病者に近いのかもしれない。考え込んだり、意識的にふるまったり、推敲しすぎたりすると、詩はつまらなくなる。
その案分が一番むずかしい。
「アハハ、こんな詩が書けたよ。うーむ」
完成したと思った作品に、一読者として向かい合う。
ことばからことばへの綱渡り。
どちらかといえば、短い詩の方がインパクトがあっておもしろい・・・と最近は思う。長く書こうとすれば、ほころびが見えてくる。「ここは別なことばと差し替えよう」
「つまらねえレトリックだな」
「ありゃ、どこかで読んだような詩句じゃねえか」
そういったいわば邪念が、つぎつぎ湧き起こるのだ。短歌や俳句ほどは短くはならない。そんなに短くていいのであれば、現代詩を書かず、短歌・俳句を書けばいいのだから。
桑原武夫さんの「第二芸術論」ではないが、いまの時代、短歌・俳句で個性を発揮するのは至難である。一作、二作では、作者の名がなければ、だれが書いたものかわからない。十作の連作のような形をとれば、「ははあ、だれだれの作品だな」と見当がつく。
詩の作者と批評家は、しばしば分かちがたくむすびついている。よくいわれることだが、すぐれた詩の作者は、すぐれた批評家をかねている。
作品は、作者本人とは違うので、子どもと同じく、違った運命を背負っている。どんな立派な本にして世の中に送り出したとて、またたくまに消えてしまうのが大部分。自費出版の大方は、そういうクズ(?)だとかんがえて間違いではない。
なかにはカフカように、宮沢賢治のように、死後望外の成功をおさめるもがあるが、それは例外中の例外に属する。わたしが書いている詩は、わたしが消えるとともに、消えてゆくだろう。
世には「文学賞」なるものが掃いて捨てるほど存在する。しかし、あとに残って読まれつづけてゆくものがどれほどあるか?
それを決めるのは、未来の読者ということになる。
むろんはやりすたりはある。はやっていたものがすたれ、すたれていたものがまたはやってくる。興亡はたえずくり返される。文庫本の絶版・廃版、再版・復刊リストを眺めていると、そういう動きが見えてくる。上限はほぼ決まっているので、そのなかでの攪拌ということになろうか。
どれほど有名な賞をとろうが沈みっぱなしの作品がある一方、つねにトップの一群を走りつづけるロングセラーもある。
小説もそうだが、詩も、読者が読むことで、そのとき読者のいわば心のなかでだけ成立する。芸術作品としての音楽も同じ。違うとかんがえるなら、その名作なり、名詩なりを、飼い猫にでも読み聞かせてみればいい。「ふん」と鼻先であしらわれる。
・・・というのはまあ、ジョークだとしても、小説なり詩なりを読む習慣のない人にすすめてみたらどうだろう。レセプター(受容体)がなければ、字面は理解できても、その奥にしまわれた意味については、なんの反応も起こらない。
心のなかでだけ成立するとは、そういうことである。
詩は読む人によって、極端にいえば千変万化する。
日本語の読めない人にとっては、紙の上の黒い染みだろう。そういうことからいえば、詩は母国語の内部に閉じ込められている。小説なら翻訳してもその価値が減ずることは少ないが、詩の場合は、ほぼ絶望的。
残念ながら、現在書いている詩はわたしと運命をともにする。
けれども、詩を書いている「わたし」は、以上のようなことを踏まえて、しかも、目下詩を書かずにはいられないのである。