二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

小林秀雄「ドストエフスキイの生活」

2008年01月04日 | ドストエフスキー
 「罪と罰」の余熱があるあいだに、どうしても読み返したい著書があった。小林秀雄の「『罪と罰』についてⅡ」である。かつて読んだはずのその本を見つけるのは時間のむだと判断し、新潮文庫の新装版を買ってきた。
 わたしはかねがね、この本に収められた「『罪と罰』についてⅡ」や「『白痴』についてⅡ」は、彼のあの「モオツァルト」とならぶ傑作ではないかと、漠然と考えてきた。読書というものが、現実の体験にまさるとも劣らない、まさに手に汗握るスリリングな体験であることを、わたしの心に刻みつけた批評だからである。小林秀雄という、当時の文学界を代表する知性が、その持てる力のすべてでドストエフスキーにぶつかり、粉砕されていく貴重な記録。このたび読み返して、まだ二十代だったころの、その直感がまちがっていないことを確認した。 
 
 ひとりの男が、ドストエフスキーという作家のこころをのぞき込んでいる。それは、巨大な深淵としかいうほかない、深海のような場所へ、ひとり潜水艇で降りていくようないわばプロジェクトに似ている。「本を読む」ということは、こういった批評家にとっては、比類のない精神の冒険である。ぶつかって火花を散らすといったレベルの話をしているのではない。「もどれないかもしれない危険」をおかして、「罪と罰」という作品の基底部の闇におりていくさまは「こいつぁ、すげえや」とでもいうほかない知的興奮に満ちた光景である。
 ドストエフスキーをおのれが思想の補強材として使った哲学者、文学者は枚挙にいとまがないといっていい。しかし、小林秀雄は、そういうことはしていない。「無私の精神」とは彼のことばだったと思うが、ほんとうに率直に、謙虚に、持てる力のすべてを「読む」ことにそそぎこんでいるのだ。できあがったのは、わが国でもっともすぐれた「ドストエフスキー論」の数々である。現在においても、これを抜くドストエフスキー論考を、寡聞にしてわたしは知らない。
 読みながらかすかに手が震えた。そういった反応をあえてことばに換えれば、
「肉体に針を刺されているような痛み」
「すがすがしい風が、背中をそっと押すような感触」
「息苦しくなって、思わず窓をあけて冷気にひたりたくなるような感動」
「これがほんとうの人間だとしたら、人間とはなんと奇妙な、厄介な存在だろうというため息」
 ・・・なさけないが、こういった表現しか思いうかばない。

 書いていけばきりがないが、要するに小林は、「罪と罰」という作品にわれわれを導いているだけだ。これはすごいことである。ここまで無心になって、ドストエフスキーとつきあえるとは! その徹底ぶり。だから本書からうける感動が「罪と罰」からうける感動にそっくりなのは、なんの不思議もない。
「な、わかるだろう。そういうことなんだ」という声が聞こえる。しかし同時に「な、わからないだろう。そういうことなんだ」という声も聞こえる。もうここからは絶句するしかない、というか、小林は作品のまっただ中に佇んで、ことばを失ってしまう。彼はただ「罪と罰」のワンシーンを、ラスコーリニコフのことばや身振りを「指し示す」だけだ。

 本書の冒頭にわが国で最初に「罪と罰」を翻訳した内田魯庵の有名な一句が紹介されている。
<恰も曠野に落雷に会ってめくるめき耳聾いたるが如き、今までに曾て覚えない深甚な感動を与えられた>
 魯庵が「罪と罰」を最初に翻訳(英訳からの重訳)したのが明治22年。小林がドストエフスキーをめぐるはじめての思索報告「永遠の夫」を発表したのが昭和8年である。評伝「ドストエフスキイの生活」は昭和10年の連載開始である。また「『罪と罰』についてⅠ」が昭和9年、「『罪と罰』についてⅡ」が昭和23年、「『白痴』についてⅡ」は昭和27年の発表である。小林に限っていえば、19年にわたってドストエフスキーを読みつづけてきたことになる。一連の論考は「解釈学」といったような、なまやさしいものでないことは読めばわかる。
<これは犯罪小説でも心理小説でもない。如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』の記録なのである。>

 本を読むということが、現実の体験と競い合ってこれほどの成果を獲得しえた例を、ごく一部の例外をのぞいてわたしはほかにほとんど知らない。

 小林秀雄「ドストエフスキイの生活」新潮文庫より
  「『罪と罰』についてⅡ」>☆☆☆☆★

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