ご本人は本書を「自分の処女作である」と称している。初版刊行は1991年に刊行され、サントリー学芸賞を受賞。
じっさいには、本書の前に「レ・ミゼラブル百六景」(1987年)「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(1991年)がある。
わたしが買ったのは、2009年に出た「新版」のほうで、巻末にその後書かれた四つのエッセイが追加されている。
古書収集家としても名を知られる鹿島さんは、前作と同様、当時の貴重な図版を各ページにたっぷりと練り込んで、すばらしい効果をあげている。
わたしが中平卓馬経由でウジェーヌ・アジェの写真に目覚めたのは、30代のはじめか、なかごろであった。
しかし、アジェが「街角の写真師」として活躍したのは、世紀末から20世紀初頭、ベル・エポックの時代で、小説家でいえば、プルーストの軌跡と、かなりの部分で重なる。
よく知られているように、パリは、ルイ・ナポレオンの登場により、都市として大きく変貌する。セーヌ県知事、オスマンの登場で、都市の整備・変革が、大規模におこなわれたからである。
鹿島さんは、小説の主人公の目に映ったパリを中心に、19世紀を縦断していく。
その主人公は、ラスティニャック(バルザック「ゴリオ爺さん」「幻滅」ほか)、リュパンブレ(バルザック「幻滅」「浮かれ女盛衰記」ほか)、ヴァランタン(バルザック「あら皮」)、フレデリック・モロー(フローベール「感情教育」)、マリユス・ポンメルシー(ユゴー「レ・ミゼラブル」)、ジュリアン・ソレル(スタンダール「赤と黒」)の6人。
そして、首都パリと地方をむすぶ交通事情、パリの街路、経済状態、若者たちの野心や暮らしぶりが、これら主人公の具体的な生活を再検証することであぶり出される仕掛けとなる。
馬車といえば、一頭立てか二頭立てか、有蓋か無蓋か・・・といった程度の関心しかなかった日本の多くの読者は、本書が披露してくれる「馬車学」に一驚するに相違ない。
馬車は現代でいう車で、当時の中心的交通手段。
この馬車を知ることによって、19世紀の世相が、古いモノクロームの無声映画を見るように浮かび上がる。
歴史と街路と、そこで生きた人びとのいわば肉声を蘇らせることにかけて、著者の手腕たるや、すばらしい魅力に富んでいるといわねばならない。
鹿島さんと出会っていなければ、バルザックに引き戻されることはなかったろう。
「遊歩者(フラヌール)」という概念を知るにいたって、わたしは自己規定がゆらぐのを感じた。
その前に出会ったエミール・ゾラ「パリの胃袋」の影響も無視できない。バルザックもゾラも、書斎にこもることなく、あるいは日本の私小説作家のように、小さな環境のなかで、自己正当化のための語をねるのでもない生き方をしてきた。
民衆のなかに踏みとどまり、その泥や叫喚を、全身に浴びて、時代風俗の真の目撃者になったのである。
こういう本を読んだあとで、バルザックや、フローベールや、ゾラに興味をもたずにいられようか!
ふつうの生活者が、普通に読んでおもしろい、こういう小説家に匹敵する想像力をもった書き手が、いまの日本文学に存在するのだろうか。
評価:★★★★★
じっさいには、本書の前に「レ・ミゼラブル百六景」(1987年)「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(1991年)がある。
わたしが買ったのは、2009年に出た「新版」のほうで、巻末にその後書かれた四つのエッセイが追加されている。
古書収集家としても名を知られる鹿島さんは、前作と同様、当時の貴重な図版を各ページにたっぷりと練り込んで、すばらしい効果をあげている。
わたしが中平卓馬経由でウジェーヌ・アジェの写真に目覚めたのは、30代のはじめか、なかごろであった。
しかし、アジェが「街角の写真師」として活躍したのは、世紀末から20世紀初頭、ベル・エポックの時代で、小説家でいえば、プルーストの軌跡と、かなりの部分で重なる。
よく知られているように、パリは、ルイ・ナポレオンの登場により、都市として大きく変貌する。セーヌ県知事、オスマンの登場で、都市の整備・変革が、大規模におこなわれたからである。
鹿島さんは、小説の主人公の目に映ったパリを中心に、19世紀を縦断していく。
その主人公は、ラスティニャック(バルザック「ゴリオ爺さん」「幻滅」ほか)、リュパンブレ(バルザック「幻滅」「浮かれ女盛衰記」ほか)、ヴァランタン(バルザック「あら皮」)、フレデリック・モロー(フローベール「感情教育」)、マリユス・ポンメルシー(ユゴー「レ・ミゼラブル」)、ジュリアン・ソレル(スタンダール「赤と黒」)の6人。
そして、首都パリと地方をむすぶ交通事情、パリの街路、経済状態、若者たちの野心や暮らしぶりが、これら主人公の具体的な生活を再検証することであぶり出される仕掛けとなる。
馬車といえば、一頭立てか二頭立てか、有蓋か無蓋か・・・といった程度の関心しかなかった日本の多くの読者は、本書が披露してくれる「馬車学」に一驚するに相違ない。
馬車は現代でいう車で、当時の中心的交通手段。
この馬車を知ることによって、19世紀の世相が、古いモノクロームの無声映画を見るように浮かび上がる。
歴史と街路と、そこで生きた人びとのいわば肉声を蘇らせることにかけて、著者の手腕たるや、すばらしい魅力に富んでいるといわねばならない。
鹿島さんと出会っていなければ、バルザックに引き戻されることはなかったろう。
「遊歩者(フラヌール)」という概念を知るにいたって、わたしは自己規定がゆらぐのを感じた。
その前に出会ったエミール・ゾラ「パリの胃袋」の影響も無視できない。バルザックもゾラも、書斎にこもることなく、あるいは日本の私小説作家のように、小さな環境のなかで、自己正当化のための語をねるのでもない生き方をしてきた。
民衆のなかに踏みとどまり、その泥や叫喚を、全身に浴びて、時代風俗の真の目撃者になったのである。
こういう本を読んだあとで、バルザックや、フローベールや、ゾラに興味をもたずにいられようか!
ふつうの生活者が、普通に読んでおもしろい、こういう小説家に匹敵する想像力をもった書き手が、いまの日本文学に存在するのだろうか。
評価:★★★★★