本書は単発で各雑誌に発表されたエッセイを一冊にまとめたもの。単行本は1993年、筑摩書房刊とある。
このところ、たてつづけに鹿島さんの本を読んでいるけれど、本書もなかなかの出来映え。ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフあたりを通じて、あるいはシャーロック・ホームズを通じて、19世紀のロシア、イギリスには関心をもちつづけてきたけれど、鹿島さんのおもしろさを発見したことで、フランス文学への間口がずいぶんと広がった。
この人の本領は、「蒐集家の眼」にある。
本書のタイトルは「パリ時間旅行」だが、要するに、19世紀パリへの招待状であり、ガイドブックなのである。
あとがきで、彼はこう書いている。
「もしどこかの天才がタイム・マシンを発明したら、私は、真っ先に実験台となって十九世紀のパリに行ってみることだろう。もちろんそのまま帰ってこれなくてもいっこうにかまわない。」
この徹底ぶりを基本路線に、オスマンの都市改造まえの19世紀パリが、読者の食卓にのぼることとなった。料理の材料が違うから、一編一編の皿を引き寄せながら、その味わいを愉しむことができる。
第一部「パリの時間旅行者」は「パリの時間隧道(パサージュ)」「ボードレールの時代への旅」「ベル・エポックの残響」の三編からなるが、どれも傑作エッセイ。ほかにも、第二部の「「清潔の心性史」や、第三部「マルヴィルのパリ」などがわたしにはおもしろかった。
写真家といえばアジェしか知らなかったので、都市改以前の古き19世紀のパリを記録に残した街角の写真家マルヴィルがいたとは驚きであった。
トルストイを読んだことがある人ならとっくに承知していることだけれど、ロシアにおいては、宮廷はもちろん、貴族のサロンや知識人は競ってフランス語をしゃべり、フランス流の社交を愉しみながら、その「先進の文化」を浴びつつ、近代化路線を歩んでいたのである。
ここに、近代ヨーロッパ文化の頂点があったことは否定すべくもない。フランス革命によって、あるいはアメリカの世界史への登場によって、時代は大きなうねりのただ中に投げ込まれ、喧噪と変革とに突っ走るブルジョアの世紀の幕開けとなる。
鹿島さんは、それを可能な限り具体的な図像とともに、読者に差し出す。
これは、わたしにいわせれば、「歴史と文学」の幸福な出会いなのである。そこに心躍らないわけがあろうか!
イラスト、絵画、写真と、その時代の文学という名の豊饒なテキストを、彼は惜しみなく投入する。たとえば、ゾラの「テレーズ・ラカン」の挿絵として描かれたデュ・ポン=ヌフのパサージュ。パリになどいったこともないわたしでさえ、数分間は、この一枚に目が釘付けになるのである。
なつかしさとは、不可解な奥行きをもった、複雑な感情である。
時代の色、形、におい・・・、はるか彼方へと立ち去ったはずの人びとの体臭や跫音を、具体的に蘇らせるのは、それほど簡単ではない。鹿島さんのこの本は、その困難に挑んで、見事な成果をおさめている。
イギリスならリンボウ先生、ドイツ、オーストリアなら、池内紀先生、そして、フランスとフランス文学なら鹿島茂先生。時代も文化も、けっして薄っぺらなものではなく、汲み尽くすことができないほどの奥行きとディテールからなっていることを、この人たちの書物は教えてくれる。
そのさきにあるのは、わたしの場合、バルザックやゾラへの旅ということになる。リアリズム文学のこういった歴史資料的な側面の魅力に、いまあらためて心躍らせているところである。
うーん、出会うのが、少し遅すぎたかもしれないが・・・。
評価:★★★★★
このところ、たてつづけに鹿島さんの本を読んでいるけれど、本書もなかなかの出来映え。ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフあたりを通じて、あるいはシャーロック・ホームズを通じて、19世紀のロシア、イギリスには関心をもちつづけてきたけれど、鹿島さんのおもしろさを発見したことで、フランス文学への間口がずいぶんと広がった。
この人の本領は、「蒐集家の眼」にある。
本書のタイトルは「パリ時間旅行」だが、要するに、19世紀パリへの招待状であり、ガイドブックなのである。
あとがきで、彼はこう書いている。
「もしどこかの天才がタイム・マシンを発明したら、私は、真っ先に実験台となって十九世紀のパリに行ってみることだろう。もちろんそのまま帰ってこれなくてもいっこうにかまわない。」
この徹底ぶりを基本路線に、オスマンの都市改造まえの19世紀パリが、読者の食卓にのぼることとなった。料理の材料が違うから、一編一編の皿を引き寄せながら、その味わいを愉しむことができる。
第一部「パリの時間旅行者」は「パリの時間隧道(パサージュ)」「ボードレールの時代への旅」「ベル・エポックの残響」の三編からなるが、どれも傑作エッセイ。ほかにも、第二部の「「清潔の心性史」や、第三部「マルヴィルのパリ」などがわたしにはおもしろかった。
写真家といえばアジェしか知らなかったので、都市改以前の古き19世紀のパリを記録に残した街角の写真家マルヴィルがいたとは驚きであった。
トルストイを読んだことがある人ならとっくに承知していることだけれど、ロシアにおいては、宮廷はもちろん、貴族のサロンや知識人は競ってフランス語をしゃべり、フランス流の社交を愉しみながら、その「先進の文化」を浴びつつ、近代化路線を歩んでいたのである。
ここに、近代ヨーロッパ文化の頂点があったことは否定すべくもない。フランス革命によって、あるいはアメリカの世界史への登場によって、時代は大きなうねりのただ中に投げ込まれ、喧噪と変革とに突っ走るブルジョアの世紀の幕開けとなる。
鹿島さんは、それを可能な限り具体的な図像とともに、読者に差し出す。
これは、わたしにいわせれば、「歴史と文学」の幸福な出会いなのである。そこに心躍らないわけがあろうか!
イラスト、絵画、写真と、その時代の文学という名の豊饒なテキストを、彼は惜しみなく投入する。たとえば、ゾラの「テレーズ・ラカン」の挿絵として描かれたデュ・ポン=ヌフのパサージュ。パリになどいったこともないわたしでさえ、数分間は、この一枚に目が釘付けになるのである。
なつかしさとは、不可解な奥行きをもった、複雑な感情である。
時代の色、形、におい・・・、はるか彼方へと立ち去ったはずの人びとの体臭や跫音を、具体的に蘇らせるのは、それほど簡単ではない。鹿島さんのこの本は、その困難に挑んで、見事な成果をおさめている。
イギリスならリンボウ先生、ドイツ、オーストリアなら、池内紀先生、そして、フランスとフランス文学なら鹿島茂先生。時代も文化も、けっして薄っぺらなものではなく、汲み尽くすことができないほどの奥行きとディテールからなっていることを、この人たちの書物は教えてくれる。
そのさきにあるのは、わたしの場合、バルザックやゾラへの旅ということになる。リアリズム文学のこういった歴史資料的な側面の魅力に、いまあらためて心躍らせているところである。
うーん、出会うのが、少し遅すぎたかもしれないが・・・。
評価:★★★★★