(新潮文庫版「音と言葉」芳賀檀。訳文が非常に読みにくい。)
10年か、もっと以前に買ったまま積ん読であった一冊を、ようやく拾い読みしはじめた。
ドイツ語がわからないので、原文と比較はできないが、非常に読みにくい文章に手こずっている。
フルトヴェングラーといえば、知る人ぞ知るカリスマ指揮者。
その昔、クラシックの指揮者はフルトヴェングラーしか聴かないという(多少誇張はあるだろうが)マニアまで存在したほど。
「音と言葉」はフルトヴェングラーの主著、というか、評論家ではないので、ほかには何も書いていないと思われる。
この本の中に「アントン・ブルックナーについて」という、1939年に書かれたエッセイがある。そこから引用しよう。
《ブルックナーの「第九シンフォニー」こそ、私の生涯において、はじめて私が二十代の音楽家として――その可、不可はともかく――指揮をとった最初の作品でありました。》(本書156ページ)
《あの音の言葉の崇(けだか)い虔(つつま)しさ、奥深さ、浄らかさは、一たびそれを真に体験した人なら、もう決して忘れることはできないでしょう。
彼の持つ欠陥さえ、もし人がブルックナーの作品の中に沈潜してみると、何かしら必然なものであり、何かそこになくてはならぬものであるかのように思われます。ブルックナーは全欧州の歴史の中でもきわめて稀にしか出現しない天才の中の一人です。彼に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪いとって、われわれ人間的な世界に植えつけることでありました。》(本書168ページ)
《ブルックナーのような型の芸術家はその周囲の環境の世界の内部にあっては、まるで質の違う岩石か、より偉大な前世紀の追憶であるかのような作用を及ぼします。》(本書169ページ)
ブルックナーをどのように理解したらいいのかというのは、わたしにとって、生涯のテーマの一つ、大げさにいえば。
交響曲7番、8番、9番は、精神的な窮地から救いだしてくれた、なくてはならない音楽である。
フルトヴェングラーはここで、ブルックナーの音楽は「普遍妥当性」に達した音楽であるといっている。
「普遍妥当性」は、フルトヴェングラー用語といってもよい、哲学的な内容をふくんでいるが、ここでは解説はしない。
ブルックナーの音楽は、あきれるような無理解と激しい毀誉褒貶にさらされ、その結果、シャルクやレーヴェといった親しい友人・弟子によって、改訂版が出され、自信が持てない作者自身が、原典をつぎからつぎと書き変えていった。
この版問題について、フルトヴェングラーはつぎのようにしるす。
《こういう種々の譜面が存在しているという事実は、なんとふしぎなことでありましょう! このように同じ作品をたえず改作するなどということはいったい他のいかなる作曲家の場合にもありえないことでした!
私たちはベートーヴェンが苦艱に悩みつつゆっくりゆっくり仕事をしたことを知っています。しかし、その創作の過程が終ったときは、作品もまた完成されていました。
これに反してブルックナーの場合は、まるで一つの作品が、彼にとって内面的に永久に完成しえないかのような印象を与えます。
まるでこの無辺無限の拡散的音楽の本質の中には、自分自身をのり超え、つき抜ける仕事は永久に完成できない、永久に「決定的」になることができない、と言ってでもいるかのように?》(本書161ページ)
これに対し、フルトヴェングラーは結論めいたことは述べていない。
ただ、ブルックナーの音楽とは、作曲家ブルックナーにとってすら、「内面的に永久に完成しえない」ものであったことを、洞察している。
わたしが思い出したのは、カフカの「城」「審判」である。これも作者にとって「内面的に永久に完成しえない」作品だからだ。
しかし、同じではない。
完成をめざしているにもかかわらず、永久に完成しえないものとはいったいどういうことであろうか?
なんというか、ここには数学的な、シニカルなパラドックスが潜んでいる。背後にあるのは、宗教的な闇である。ブルックナーはカトリックの、カフカはユダヤ教の。
それはことばを換えれば、一神教が持つパラドックスにまでいってしまうだろう。
完成をめざしているにもかかわらず、永久に完成しえないもの。それに向かって微笑み、こうべを垂れ、跪く。
日本人にはわかりにくいこころのくらがりといってもいいのである。
ブルックナーの音楽を演奏する。その音楽に聴き入る。
それはこの闇に向き合うことと、ほぼパラレルなものなのではないかしら?
多少努力しても、明確には意識することができないくらがりの奥から響いてくる音楽。ことさら神秘化するわけではないが、ブルックナーの音楽が持っている「癒し効果」とは、そういうものであるように思える(^^♪
何度も耳をすましていれば、いつかもっと明快な解がえらえる日がくるのかもしれないし、こないのかもしれない。「解」はない・・・としても、解がない問題はほかにだって存在する。
ベートーヴェンの「第九」が後世に与えた巨大な影響が生み出した、そういったものの、一番高いこところに、ブルックナーの音楽が、聳え立っている。
ブルックナーを聴くということは、このような涯しのない問いに耳をすますこと、その響きの目くるめく渦巻きに、身をさらすことなのであ~る。
この版問題に深入りするとたいへんなことになるので、興味がある方は、ウィキペディアを参照されたい。
◆ブルックナーの版問題◆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%89%88%E5%95%8F%E9%A1%8C
※「音と言葉」芳賀檀のこの本は、すでに書いたように訳文に少なからず問題がある。芦津丈夫訳、白水社の新版があるので、今後も気になるようならこちらを手に入れよう。
※フルトヴェングラーのブル9はこちらで聴くことができる。
https://www.youtube.com/watch?v=EbNiS0u-B9k
10年か、もっと以前に買ったまま積ん読であった一冊を、ようやく拾い読みしはじめた。
ドイツ語がわからないので、原文と比較はできないが、非常に読みにくい文章に手こずっている。
フルトヴェングラーといえば、知る人ぞ知るカリスマ指揮者。
その昔、クラシックの指揮者はフルトヴェングラーしか聴かないという(多少誇張はあるだろうが)マニアまで存在したほど。
「音と言葉」はフルトヴェングラーの主著、というか、評論家ではないので、ほかには何も書いていないと思われる。
この本の中に「アントン・ブルックナーについて」という、1939年に書かれたエッセイがある。そこから引用しよう。
《ブルックナーの「第九シンフォニー」こそ、私の生涯において、はじめて私が二十代の音楽家として――その可、不可はともかく――指揮をとった最初の作品でありました。》(本書156ページ)
《あの音の言葉の崇(けだか)い虔(つつま)しさ、奥深さ、浄らかさは、一たびそれを真に体験した人なら、もう決して忘れることはできないでしょう。
彼の持つ欠陥さえ、もし人がブルックナーの作品の中に沈潜してみると、何かしら必然なものであり、何かそこになくてはならぬものであるかのように思われます。ブルックナーは全欧州の歴史の中でもきわめて稀にしか出現しない天才の中の一人です。彼に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪いとって、われわれ人間的な世界に植えつけることでありました。》(本書168ページ)
《ブルックナーのような型の芸術家はその周囲の環境の世界の内部にあっては、まるで質の違う岩石か、より偉大な前世紀の追憶であるかのような作用を及ぼします。》(本書169ページ)
ブルックナーをどのように理解したらいいのかというのは、わたしにとって、生涯のテーマの一つ、大げさにいえば。
交響曲7番、8番、9番は、精神的な窮地から救いだしてくれた、なくてはならない音楽である。
フルトヴェングラーはここで、ブルックナーの音楽は「普遍妥当性」に達した音楽であるといっている。
「普遍妥当性」は、フルトヴェングラー用語といってもよい、哲学的な内容をふくんでいるが、ここでは解説はしない。
ブルックナーの音楽は、あきれるような無理解と激しい毀誉褒貶にさらされ、その結果、シャルクやレーヴェといった親しい友人・弟子によって、改訂版が出され、自信が持てない作者自身が、原典をつぎからつぎと書き変えていった。
この版問題について、フルトヴェングラーはつぎのようにしるす。
《こういう種々の譜面が存在しているという事実は、なんとふしぎなことでありましょう! このように同じ作品をたえず改作するなどということはいったい他のいかなる作曲家の場合にもありえないことでした!
私たちはベートーヴェンが苦艱に悩みつつゆっくりゆっくり仕事をしたことを知っています。しかし、その創作の過程が終ったときは、作品もまた完成されていました。
これに反してブルックナーの場合は、まるで一つの作品が、彼にとって内面的に永久に完成しえないかのような印象を与えます。
まるでこの無辺無限の拡散的音楽の本質の中には、自分自身をのり超え、つき抜ける仕事は永久に完成できない、永久に「決定的」になることができない、と言ってでもいるかのように?》(本書161ページ)
これに対し、フルトヴェングラーは結論めいたことは述べていない。
ただ、ブルックナーの音楽とは、作曲家ブルックナーにとってすら、「内面的に永久に完成しえない」ものであったことを、洞察している。
わたしが思い出したのは、カフカの「城」「審判」である。これも作者にとって「内面的に永久に完成しえない」作品だからだ。
しかし、同じではない。
完成をめざしているにもかかわらず、永久に完成しえないものとはいったいどういうことであろうか?
なんというか、ここには数学的な、シニカルなパラドックスが潜んでいる。背後にあるのは、宗教的な闇である。ブルックナーはカトリックの、カフカはユダヤ教の。
それはことばを換えれば、一神教が持つパラドックスにまでいってしまうだろう。
完成をめざしているにもかかわらず、永久に完成しえないもの。それに向かって微笑み、こうべを垂れ、跪く。
日本人にはわかりにくいこころのくらがりといってもいいのである。
ブルックナーの音楽を演奏する。その音楽に聴き入る。
それはこの闇に向き合うことと、ほぼパラレルなものなのではないかしら?
多少努力しても、明確には意識することができないくらがりの奥から響いてくる音楽。ことさら神秘化するわけではないが、ブルックナーの音楽が持っている「癒し効果」とは、そういうものであるように思える(^^♪
何度も耳をすましていれば、いつかもっと明快な解がえらえる日がくるのかもしれないし、こないのかもしれない。「解」はない・・・としても、解がない問題はほかにだって存在する。
ベートーヴェンの「第九」が後世に与えた巨大な影響が生み出した、そういったものの、一番高いこところに、ブルックナーの音楽が、聳え立っている。
ブルックナーを聴くということは、このような涯しのない問いに耳をすますこと、その響きの目くるめく渦巻きに、身をさらすことなのであ~る。
この版問題に深入りするとたいへんなことになるので、興味がある方は、ウィキペディアを参照されたい。
◆ブルックナーの版問題◆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%89%88%E5%95%8F%E9%A1%8C
※「音と言葉」芳賀檀のこの本は、すでに書いたように訳文に少なからず問題がある。芦津丈夫訳、白水社の新版があるので、今後も気になるようならこちらを手に入れよう。
※フルトヴェングラーのブル9はこちらで聴くことができる。
https://www.youtube.com/watch?v=EbNiS0u-B9k