(「西行論」講談社文芸文庫)
1940年代、50年代に生まれた日本人にとって、吉本隆明は、最大の巨星と呼ぶにふさわしい思想家である。世代論で論じるつもりはまったくないが、とりわけこの時代に生まれ、60年代70年代に青春期を送った世代には、ある決定的な影響をもたらしたのは争われない。
大勢の思想家らしき人物はほかにもいたのだ。しかし彼らのほとんどは、時代の大いなる波に呑み込まれ、姿を消していった。
そして、最後にこの人が残ったのである。
ご自分でも江藤淳との対談で述べているように、吉本さんの思想的な構えは、「暴けるものなら、あらゆるものを暴いてしまえ」という基本姿勢に基づいたものである。たしか天皇制がテーマだったと思うが、宮内庁が管理している歴代天皇の墓を発掘し、暴いてしまえば、天皇制はそのよりどころを失うだろうというものであった。
それに対し、江藤さんは、森鴎外流の「かのように」の哲学で応戦していた、と記憶する(多少間違っているかもしれないが)。
ラディカルな思想家吉本さんvs.保守本流の文芸批評家江藤さん。そういう構図がわたしの脳裏に入力された。60年安保をたたかった人たち、学園闘争の渦中に身を置いた人たちの多くにとって、吉本さんは唯一無二の“カリスマ的”存在であった。
現在、高価で重たい晶文社の吉本隆明全集の定期読者層は、大半がそういう読者である。わたしの友人にも、この全集を買って、書棚に飾っておく人が何人かいる。読みはしないし、読んでも半分くらいしかわからないのだが、悪口をいわせてもらえば、自分の生活の漬物石として定期購読しているのだ(。-_-。)
生活の中の漬物石。
それは、ある種の人々にとっては必要なものなのである。かくいうわたしにもこの漬物石にあたる本が、いくつか存在する。
さて、せんだっては「西行論」、昨日は「最後の親鸞」、この2冊をつづけて読んだので、簡単に“読書感想文”を書いておこう。時間がたてば間違いなく忘れてしまうだろうから。
■吉本隆明「西行論」(講談社文芸文庫 1990年刊)
本書は、
1.僧形論
2.武門論
3.歌人論
の3部から成り立っている。
なぜいま西行なのかというと、わたしが西行を知らないからである。「山家集」すら読んでいないので、内心忸怩たるものがあった。
藤原定家とならぶ「新古今和歌集」随一のこの歌人をはじめて知ったのは、小林秀雄によってである。「山家集」は読まないが、西行について書かれた本はこれまで読もうとしてきたことがあった。
しかも、芭蕉を読んでいると、西行への“おもいの丈”が、しばしば語られている。乱暴ないい方をしてしまえば、ある意味、江戸期の西行、俳諧における西行を目指したのが、芭蕉であったといえる。
吉本さんは、西行をめぐる伝説・神話のたぐいをいっさい認めないから、西行に仮託された物語の泥を丁寧に洗い落とし、“真実の西行”へと迫っていく。「撰集抄」も「西行物語」も、そこで語られる挿話・伝承のほぼすべてが、解体され退けられる。
結局のところ、同時代人の証言いくつかと、ほぼ「山家集」だけを分析の対象に、西行の実像に迫っている。中でも和歌の分析は徹底している。
こころと月。
和歌に詠みこまれたこのふたつのイメージとことばが、西行自身によっていかに使用されているかを丹念に洗い出して俎上にのせているばかりでなく、それらの用例を「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」までふくめ、一覧表にして、いわば“社会科学的に”検証している。
ここには「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」の吉本さんがいる。彼の思想の展開があり、「山家集」を可能な限り細部まで読み解き、西行の実像に肉薄していく、吉本流の手法が鮮やかである。
文体は決して読みやすいとはいえない。哲学的ドイツ観念論的ないいまわしが、随所に出てくる。だが読者をはぐらかそうとしているわけではないから、数ページ前に戻って読み返せば、たいていは理解が可能。
それら神話・伝承のすべてを無効にしてしまったあと、「歌人論」では、西行が西行でしかありえなかった、その生きざまに強い共感を寄せている。
西行という歌よみに、三つの強烈な光があてられる。
「僧形論」「武門論」「歌人論」、この交点に実在した西行の、ありえたであろう内在的風景を冷徹な手法で組み上げていくのだ。
このあたりは吉本さんの独壇場というべきである。まさに、吉本隆明でなければ書けなかった、深沈たる西行像。
たしかな資料や記録が乏しいための推測が多く、断定にためらいがあるので、読後感はすっきりとはしない。そのため、複雑な重々しい感触が、わたしには残った。末法の世、日本中世という世界像を背景にして、そのキャンバスの上に、どういった西行を描き出せばいいのかと、しばし立ち止まって考え込んでいる。
「僧形論」「武門論」が比較的すっきりした仕上がりなのに比べ、「歌人論」には迷っている吉本さんがいる。
なぜかといえば、吉本さんご自身が詩人であるからだ。詩人としての自分をどこまで投影したらいいのか、どこで断ち切るのか。
そういった難問が、おしまいまでついて回ったのではないかと、わたしは推測した。
いずれにせよ、本書の出現によって、西行論が新たな段階をむかえたのではないか・・・とわたしは考えている。
評価:☆☆☆☆
■吉本隆明「最後の親鸞」(ちくま学芸文庫 2002年刊)
かつて単行本が刊行されたとき読みはじめて第1章だけ読んだが、第2章「和讃」で挫折した苦い思い出がある。今回はまがりなりに、最後まで読み終えることができた(^^;
すでに多くの批評家によって評価はさだまっていると思われるが、吉本隆明の代表作の一つといっていいだろう。省察が空回りしているところが、まったくない。
解説の中沢新一さんが衝撃をうけたというのがうなずける、大地に大きな杭を打ち込んだような、日本人が書き得た、すごい思想書である。
残された数少ない文献をもとに、ここまで親鸞を読み込むとは、あきれるほどの執念というべきであろう。
戦後最大の思想家とまつり上げられてはいるものの、じっさいには、吉本隆明ににじり寄れる批評家は、ごく少数。
本書は新書レベルの理解の仕方では食らいつきようがない表現の達成度を持っている。吉本さんの文章は、一口にいえば、とても読みにくい文章なので、注意力散漫だと、何が書いてあるのかわからなくなってしまう。
「最後の親鸞」の場合も同様。
結局のところ、何がいいたいのか、ドイツ観念論的な濃霧の中で、わたしもしばし手探りするしかなかったのだ。
とはいえ、一朝一夕に書かれた親鸞論ではない。長い蓄積の中で煮詰められてきたことばが、この本の背後をささえている・・・というか、内省の厚みが、論考を対象の深くまで食い込ませることに成功している。切れ味が鋭いという本とは違う。
《一介の批評家の仕事としては、これだけのことができれば充分である。わたしは、この数年にわたる「聞書・親鸞」のうちから択んだ文章と、それから派生した「ある親鸞」と題する別稿とで本書を構成した。もっと極端にいえば、「最後の親鸞」という文章だけで本をつくってもいいと思った。わたしが親鸞の著作を眼前にして云いたいことは、すべてこの本に云いつくされている。あとは読まれる人々にうまく主意が伝わるのを願うだけである。》(文庫版あとがき)
吉本隆明さんは、はたして理解者が得られるのかどうかの瀬戸際まで歩いている。後ろを振り返ったら、だれもついてくる人はいないのかもしれない。「最後の親鸞」は、吉本隆明の到達点の一つであるといっていいのだ。
そのことを考えずに、本書を読み終えられる読者はしあわせというべきだろう。宗教学・宗教社会学を専門としているインテリゲンチャ層しか理解者が得られないような、そういう境域まで、歩をすすめてしまったというべきである。そこに彼のほんとうのすごさが存在する。
最後の親鸞
和讃 ―親鸞和讃の特異性
ある親鸞
親鸞伝説
教理上の親鸞
永遠と現在 ―親鸞の語録から
書下ろしではなく、個々に書かれたこの6つの章によって本書は構成されている。「最後の親鸞」と「親鸞伝説」は、わたしには特別興味深かったが、「和讃 ―親鸞和讃の特異性」も、専門家ならユニークな論考として、注目せざるをえないだろう。
とはいうものの、この文体を、一語一語、正確にたとえば英文に翻訳できるものだろうか?
しばしば主語と述語の関係ははぐらかされ、吉本用語の内側へと屈折している。その内側まで読める人が、はたして何人いるか。あるいは親鸞がどういった思想家であったか、と問うことは、西洋文明にとって、意味があることであるかどうか。
吉本さんは、そのことを自覚し、ひそかに内にかかえながら、この仕事をしたと思える。
日本人にとっては、宗教家、思想家として大きな存在であった親鸞も、ローカルなアジア的存在であり、半永久的に日本語という特異な言語の中にとどまる存在でしかないのではないかという疑問がやってくる。それがそのまま、親鸞の日本中世におけるローカリズムとパラレルであるとの思いを、わたしは拭いさることができない。
そこには、日本人の悲嘆(矜持といっても同じだが)がある。日本語の壁の内側で仕事をせざるを得なかった吉本隆明さんという思想家の境域が、そのまま親鸞の境域と重なる。おそらくは理解されないであろうと考えながら、わたしは本書の外側と内側、そのいわば縁辺の部分を想像してみる。
わたしが買ったのは、2015年発行の第13刷。この手の本としてはそこそこの売れ行きだろうが、本書を最後まで読んだ・・・という読者がはたして何人いるか。
そこまで歩いてしまったのが、吉本隆明のすごさであり、不幸であったのではないか。
本が売れる、売れないの“位相”(これも吉本用語だと思うが)を、本書は軽々と越えてしまっている。
名高い「歎異抄」や、その注釈書、初心者向けの入門書なら、履いて捨てるほど存在する。そういった本と、この「最後の親鸞」とはあまりにも大きな隔たりがある。一人の思想家が、渾身の力を込めて、暗がりに身を潜めているかのような“伝説”の宗教者と対峙している。吉本さんの額にも、脂汗がにじんでいる。それが見えるかどうか?
本書は読者にとって、そういう意味で、きわめてシリアスな試金石である。
私自身十分読みこなしているとはとてもいえないが、哲学・思想のジャンルにおいて、吉本隆明に比肩しうる人物は当分出ないだろうと、読み終えた後、嘆息せざるを得なかった。
評価:☆☆☆☆☆
※読解力が追いついていないため、この2冊についてのわたしの評価はアテにならないことをお断りしておきます。
最後に「徒然草」のつぎの一説を、自戒のことばとして引用しておこう。
《すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし》(第57段)
1940年代、50年代に生まれた日本人にとって、吉本隆明は、最大の巨星と呼ぶにふさわしい思想家である。世代論で論じるつもりはまったくないが、とりわけこの時代に生まれ、60年代70年代に青春期を送った世代には、ある決定的な影響をもたらしたのは争われない。
大勢の思想家らしき人物はほかにもいたのだ。しかし彼らのほとんどは、時代の大いなる波に呑み込まれ、姿を消していった。
そして、最後にこの人が残ったのである。
ご自分でも江藤淳との対談で述べているように、吉本さんの思想的な構えは、「暴けるものなら、あらゆるものを暴いてしまえ」という基本姿勢に基づいたものである。たしか天皇制がテーマだったと思うが、宮内庁が管理している歴代天皇の墓を発掘し、暴いてしまえば、天皇制はそのよりどころを失うだろうというものであった。
それに対し、江藤さんは、森鴎外流の「かのように」の哲学で応戦していた、と記憶する(多少間違っているかもしれないが)。
ラディカルな思想家吉本さんvs.保守本流の文芸批評家江藤さん。そういう構図がわたしの脳裏に入力された。60年安保をたたかった人たち、学園闘争の渦中に身を置いた人たちの多くにとって、吉本さんは唯一無二の“カリスマ的”存在であった。
現在、高価で重たい晶文社の吉本隆明全集の定期読者層は、大半がそういう読者である。わたしの友人にも、この全集を買って、書棚に飾っておく人が何人かいる。読みはしないし、読んでも半分くらいしかわからないのだが、悪口をいわせてもらえば、自分の生活の漬物石として定期購読しているのだ(。-_-。)
生活の中の漬物石。
それは、ある種の人々にとっては必要なものなのである。かくいうわたしにもこの漬物石にあたる本が、いくつか存在する。
さて、せんだっては「西行論」、昨日は「最後の親鸞」、この2冊をつづけて読んだので、簡単に“読書感想文”を書いておこう。時間がたてば間違いなく忘れてしまうだろうから。
■吉本隆明「西行論」(講談社文芸文庫 1990年刊)
本書は、
1.僧形論
2.武門論
3.歌人論
の3部から成り立っている。
なぜいま西行なのかというと、わたしが西行を知らないからである。「山家集」すら読んでいないので、内心忸怩たるものがあった。
藤原定家とならぶ「新古今和歌集」随一のこの歌人をはじめて知ったのは、小林秀雄によってである。「山家集」は読まないが、西行について書かれた本はこれまで読もうとしてきたことがあった。
しかも、芭蕉を読んでいると、西行への“おもいの丈”が、しばしば語られている。乱暴ないい方をしてしまえば、ある意味、江戸期の西行、俳諧における西行を目指したのが、芭蕉であったといえる。
吉本さんは、西行をめぐる伝説・神話のたぐいをいっさい認めないから、西行に仮託された物語の泥を丁寧に洗い落とし、“真実の西行”へと迫っていく。「撰集抄」も「西行物語」も、そこで語られる挿話・伝承のほぼすべてが、解体され退けられる。
結局のところ、同時代人の証言いくつかと、ほぼ「山家集」だけを分析の対象に、西行の実像に迫っている。中でも和歌の分析は徹底している。
こころと月。
和歌に詠みこまれたこのふたつのイメージとことばが、西行自身によっていかに使用されているかを丹念に洗い出して俎上にのせているばかりでなく、それらの用例を「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」までふくめ、一覧表にして、いわば“社会科学的に”検証している。
ここには「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」の吉本さんがいる。彼の思想の展開があり、「山家集」を可能な限り細部まで読み解き、西行の実像に肉薄していく、吉本流の手法が鮮やかである。
文体は決して読みやすいとはいえない。哲学的ドイツ観念論的ないいまわしが、随所に出てくる。だが読者をはぐらかそうとしているわけではないから、数ページ前に戻って読み返せば、たいていは理解が可能。
それら神話・伝承のすべてを無効にしてしまったあと、「歌人論」では、西行が西行でしかありえなかった、その生きざまに強い共感を寄せている。
西行という歌よみに、三つの強烈な光があてられる。
「僧形論」「武門論」「歌人論」、この交点に実在した西行の、ありえたであろう内在的風景を冷徹な手法で組み上げていくのだ。
このあたりは吉本さんの独壇場というべきである。まさに、吉本隆明でなければ書けなかった、深沈たる西行像。
たしかな資料や記録が乏しいための推測が多く、断定にためらいがあるので、読後感はすっきりとはしない。そのため、複雑な重々しい感触が、わたしには残った。末法の世、日本中世という世界像を背景にして、そのキャンバスの上に、どういった西行を描き出せばいいのかと、しばし立ち止まって考え込んでいる。
「僧形論」「武門論」が比較的すっきりした仕上がりなのに比べ、「歌人論」には迷っている吉本さんがいる。
なぜかといえば、吉本さんご自身が詩人であるからだ。詩人としての自分をどこまで投影したらいいのか、どこで断ち切るのか。
そういった難問が、おしまいまでついて回ったのではないかと、わたしは推測した。
いずれにせよ、本書の出現によって、西行論が新たな段階をむかえたのではないか・・・とわたしは考えている。
評価:☆☆☆☆
■吉本隆明「最後の親鸞」(ちくま学芸文庫 2002年刊)
かつて単行本が刊行されたとき読みはじめて第1章だけ読んだが、第2章「和讃」で挫折した苦い思い出がある。今回はまがりなりに、最後まで読み終えることができた(^^;
すでに多くの批評家によって評価はさだまっていると思われるが、吉本隆明の代表作の一つといっていいだろう。省察が空回りしているところが、まったくない。
解説の中沢新一さんが衝撃をうけたというのがうなずける、大地に大きな杭を打ち込んだような、日本人が書き得た、すごい思想書である。
残された数少ない文献をもとに、ここまで親鸞を読み込むとは、あきれるほどの執念というべきであろう。
戦後最大の思想家とまつり上げられてはいるものの、じっさいには、吉本隆明ににじり寄れる批評家は、ごく少数。
本書は新書レベルの理解の仕方では食らいつきようがない表現の達成度を持っている。吉本さんの文章は、一口にいえば、とても読みにくい文章なので、注意力散漫だと、何が書いてあるのかわからなくなってしまう。
「最後の親鸞」の場合も同様。
結局のところ、何がいいたいのか、ドイツ観念論的な濃霧の中で、わたしもしばし手探りするしかなかったのだ。
とはいえ、一朝一夕に書かれた親鸞論ではない。長い蓄積の中で煮詰められてきたことばが、この本の背後をささえている・・・というか、内省の厚みが、論考を対象の深くまで食い込ませることに成功している。切れ味が鋭いという本とは違う。
《一介の批評家の仕事としては、これだけのことができれば充分である。わたしは、この数年にわたる「聞書・親鸞」のうちから択んだ文章と、それから派生した「ある親鸞」と題する別稿とで本書を構成した。もっと極端にいえば、「最後の親鸞」という文章だけで本をつくってもいいと思った。わたしが親鸞の著作を眼前にして云いたいことは、すべてこの本に云いつくされている。あとは読まれる人々にうまく主意が伝わるのを願うだけである。》(文庫版あとがき)
吉本隆明さんは、はたして理解者が得られるのかどうかの瀬戸際まで歩いている。後ろを振り返ったら、だれもついてくる人はいないのかもしれない。「最後の親鸞」は、吉本隆明の到達点の一つであるといっていいのだ。
そのことを考えずに、本書を読み終えられる読者はしあわせというべきだろう。宗教学・宗教社会学を専門としているインテリゲンチャ層しか理解者が得られないような、そういう境域まで、歩をすすめてしまったというべきである。そこに彼のほんとうのすごさが存在する。
最後の親鸞
和讃 ―親鸞和讃の特異性
ある親鸞
親鸞伝説
教理上の親鸞
永遠と現在 ―親鸞の語録から
書下ろしではなく、個々に書かれたこの6つの章によって本書は構成されている。「最後の親鸞」と「親鸞伝説」は、わたしには特別興味深かったが、「和讃 ―親鸞和讃の特異性」も、専門家ならユニークな論考として、注目せざるをえないだろう。
とはいうものの、この文体を、一語一語、正確にたとえば英文に翻訳できるものだろうか?
しばしば主語と述語の関係ははぐらかされ、吉本用語の内側へと屈折している。その内側まで読める人が、はたして何人いるか。あるいは親鸞がどういった思想家であったか、と問うことは、西洋文明にとって、意味があることであるかどうか。
吉本さんは、そのことを自覚し、ひそかに内にかかえながら、この仕事をしたと思える。
日本人にとっては、宗教家、思想家として大きな存在であった親鸞も、ローカルなアジア的存在であり、半永久的に日本語という特異な言語の中にとどまる存在でしかないのではないかという疑問がやってくる。それがそのまま、親鸞の日本中世におけるローカリズムとパラレルであるとの思いを、わたしは拭いさることができない。
そこには、日本人の悲嘆(矜持といっても同じだが)がある。日本語の壁の内側で仕事をせざるを得なかった吉本隆明さんという思想家の境域が、そのまま親鸞の境域と重なる。おそらくは理解されないであろうと考えながら、わたしは本書の外側と内側、そのいわば縁辺の部分を想像してみる。
わたしが買ったのは、2015年発行の第13刷。この手の本としてはそこそこの売れ行きだろうが、本書を最後まで読んだ・・・という読者がはたして何人いるか。
そこまで歩いてしまったのが、吉本隆明のすごさであり、不幸であったのではないか。
本が売れる、売れないの“位相”(これも吉本用語だと思うが)を、本書は軽々と越えてしまっている。
名高い「歎異抄」や、その注釈書、初心者向けの入門書なら、履いて捨てるほど存在する。そういった本と、この「最後の親鸞」とはあまりにも大きな隔たりがある。一人の思想家が、渾身の力を込めて、暗がりに身を潜めているかのような“伝説”の宗教者と対峙している。吉本さんの額にも、脂汗がにじんでいる。それが見えるかどうか?
本書は読者にとって、そういう意味で、きわめてシリアスな試金石である。
私自身十分読みこなしているとはとてもいえないが、哲学・思想のジャンルにおいて、吉本隆明に比肩しうる人物は当分出ないだろうと、読み終えた後、嘆息せざるを得なかった。
評価:☆☆☆☆☆
※読解力が追いついていないため、この2冊についてのわたしの評価はアテにならないことをお断りしておきます。
最後に「徒然草」のつぎの一説を、自戒のことばとして引用しておこう。
《すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし》(第57段)