二草庵摘録

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中原中也と大岡昇平 ~「冬の長門峡」を軸に

2020年07月04日 | 俳句・短歌・詩集
   (大岡昇平「中原中也」講談社文芸文庫)



長い間の懸案だった大岡昇平さんの「中原中也」を、ようやく読みおえることができた。
併せて小林秀雄が、中原について書いた短い文章7編をすべて読み返した。

そこでたいへん興味ある「裏側」の光景を眼にすることができたので、感想をしたためておこう。
わたしが読んだのは、「中原中也伝――揺籃」「朝の歌」「在りし日の歌」の3編を収めた講談社文芸文庫の「中原中也」である。

はじめに中原の詩を引用する。

■冬の長門峡  

長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如(ごと)く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。


この作品は、はじめて読んだ中学生にはよくはわからなかったものの、抑制された暗い情念がこもっているようで、とても気になったのを覚えている。
16~7編ある、彼の秀作の一つである、ともかんがえた。これは晩年(といっても享年30だが)の詩なのに、“けり”や“ぬ”、“き”を文末に置いた文語調を採用している。

「おそらくこの倍くらい書いたのだ。それをギシギシとそぎ落とし、ことばを削って現在の姿にしたのだろう」
後年読み返したとき、そんな想像にとらえられた。
書かれた内容に比して、全行どこをとっても表現にある種の緊張感がある。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

それがどうした、とからかってみたくなる。
しかし、読みおえてしばらくたつと、これらのことばが、彼の手にかかると、たしかな詩的言語になっていることに気づかされる。
リフレインをやたら使うのは、ごく初期からの中原中也のスタイル。「ありぬ、ありぬ」と、たたみかけてくるので、印象が強まる。

とはいうものの、冬の寒い日に長門峡(山口市郊外の観光地)に出かけ、酒をくらったというだけ。「密柑(みかん=蜜柑)の如き夕陽」だって、平凡な喩にすぎない(なぜ「も」が入るのかはなぞだが)。
わたしはこの詩をエレジー、悲歌として読んだ。
なにかあったのだが、そのことには一切ふれない。悲しみをこらえている詩なのである。
そうとしか、読みようがないといえる。

われのほか別に、
客とてもなかりけり

冬になぜそんなところへ出かけ、ひとり酒を酌むことになったのか?
その背景が、大岡昇平さんの以下の文章、引用文で、ようようわかった。

《渓流(たにがわ)で冷やされたビールは、青春のように悲しかった。
峰を仰いで僕は
泣き入るやうに飲んだ。
ビショビショに濡れて、とれさうになってゐるレツテルも、
青春のように悲しかった。
(略)
僕はもう、此の上を歩きたいなぞとは思はなかった。
独り失敬して、宿にいって、
女中(ねえさん)と話をした。》(「渓流」)より

これが「冬の長門峡」を書いた“そのとき”のものか、別な日の出来事か、大岡さんは慎重に考慮すべきとし、判断を保留している。詩では、

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

という設定になっているからである。
にもかかわらず、これこそ「冬の長門峡」の舞台裏であろうとわたしはかんがえる。
本来はテーマそのものといえる感情を始末し、作品の裏にかくすことで、この詩はある普遍性に達している。
「ここ(「冬の長門峡」)には中原の短い生涯で経てきた時間だけが指示されているのである」と大岡さんは評伝「在りし日の歌」で書いている。
涙の理由がなんであるかはどうでもいい。
あえていえばおのが「宿命」に涙をそそいでいる中原がいる、とでもいうほかない。


  (参照した「中原中也詩集」2冊)

わたしの独断と偏見によれば、以下の作品が中原の秀作となる。

「羊の歌」では、
春の日の夕暮れ
サーカス
朝の歌
臨終
帰郷
汚れちまった悲しみに
生い立ちの歌


「在りし日の歌」では、

北の海
お道化うた
わが半生
曇天
一つのメルヘン
言葉なき歌
月夜の浜辺
冬の長門峡
春日狂想

丁寧に読んでいけば、ほかにも秀作や佳作がいくつかあるだろう。
長文となるからこれ以上の引用はひかえておくが、「朝の歌」「汚れちまった悲しみに」「骨」「北の海」「一つのメルヘン」「言葉なき歌」あたりは、傑出した比類のない抒情詩である。
このような詩的言語に中原はいのちを賭けた。そしてそれに値する、彼にしか書けない作品を生み出した。
大岡さんの「中原中也」は、読みたいと思いはじめてから半世紀が過ぎてしまった。
わたしにとっては、戦後文学の最高峰「野火」の小説家として畏敬する大岡昇平。
「中原中也」は、その大岡さん畢生の評伝である。


  (わが国における音楽批評の草分けとなる吉田秀和も中原の親しい友人であった)

詩人中原中也を知らず、その作品だけでファンとなっている読者は、なんとシアワセだろうと慨嘆するリアリスト大岡昇平の眼が、この評伝の“すごみ”である。
大岡さんにとっては、しばしば殴り合いまでしたという中原は、愛憎半ばする青春期の友人であった。
長谷川泰子をめぐる小林秀雄との三角関係の内実についても、当時可能な範囲(当事者小林も泰子も存命)でギリギリまで肉薄している。


  (小林秀雄全集第2巻と北川透「中原中也わが展開」)

小林秀雄は、中原が死んで12年後、つぎのように書いている。
《私は辛かった。詩人を理解するといふ事は、詩ではなく、生まれ乍らの詩人の肉体を理解するといふ事は、何と辛い想ひだろう。彼に会った時から、私はこの感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それはいつも新しく辛いものであるか訝(いぶ)った。》(「中原中也の思い出」より 小林秀雄。旧漢字は新漢字に変換)

中原は周囲の人間を傷つける名人であった。
しかしながら、歳月が流れて、愛憎はうすれ、中原の詩だけが残る。
「裏と表」ではない。あくまで「表と裏」。
作品「冬の長門峡」の裏まで、ついに見てしまったという重苦しい思いが、いまわたしの胸中をふさぐ。


あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言へようか
君に取返しのつかぬ事をして了つたあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた
    ・・・小林秀雄「死んだ中原」

死後まもなくはこういったことばを彼の霊前に捧げるだけで、小林は精一杯であった。

ところで大岡さんは「在りし日の歌」の最後の方でつぎのようにしるす。

《どこへ行っても中原には安住の地はなかったのだ。》
《当時私は自分に対して次のような問題を出した。
「中原の不幸は果たして人間という存在の根本条件に根拠を持っているか。いい換えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか。
以来、私は十八年断続して中原のことを書き続けている》(「在りし日の歌」より)

戦争、スタンダール、中原中也。
これが、作家大岡昇平の生涯を貫く三大テーマであった。
さっき通読したばかりだが、本書の最後の最後に「著者から読者へ」という5ページばかりの一文が収録されている。
死去する八日まえに、順天堂病院で口述筆記されたものである。そこで大岡さんは「おまえ」ということばで、直接中原に話しかけている。遠いとおい昔に別れた中原に。

中原が臨終間近な大岡昇平の枕辺までやってきたのだな・・・、そう思って、わたしは胸を衝かれ、目頭が熱くなるのをこらえることができなかった。


  (1週間ばかりまえ手に入れた新潮文学アルバム「大岡昇平」)



※ 以下のサイトも参考にしました。
「中原中也・全詩アーカイブ」
http://nakahara.air-nifty.com/blog/2012/04/post-95da.html

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