
成長する耳・・・といっても、耳長姫のように耳がデカくなるという噺ではない、残念ながら(笑)。
写真の場合でも同じだけれど、耳もチャレンジし、学習し、ある種の修練をつむことで、理解力が深まっていくということがいいたいのであ~る(~o~)
人の心は一カ所にいつまでもとどまってはいない。いられないのである。
どんどん変化し、アップデートされる。そのスピードは若いころも、いまもかわらない。
昨日まではわからなかった写真やつまらなかった音楽が、ある日を境に突然おもしろくなる。
こういうことはわたしばかりでなく、だれにだって起こる。
「あ、あー。こんな曲だったのね!!」
胸をえぐられる・・・、そんなおもいを抱えて、音楽の回廊の中へ歩み入る。
モーツァルトもブラームスも、音楽によって語っている。それはわかる人だけにわかる言語で――といっていいだろう。
くり返し耳をすますことで、あるいはいろいろな本を読んでヒントをいただくことで、わたしの耳が成長し、アップデートされていく。
最近ではこんな曲に耳をすましている。
■ モーツァルト
「弦楽四重奏曲第15番ニ短調 K421」ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団
「弦楽五重奏曲第4番ト短調 K516」スメタナ四重奏団+ヨゼフ・スーク
■ブラームス
「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調 作品102」アーノンクール指揮ロンヤルコンセルトヘボウ+ギドン・クレーメル
弦楽五重奏曲第4番はともかく、弦楽四重奏曲15番なんてのがあったのですね(^^;)
あー、混乱しそう(笑)。
ご覧のように、すべて短調の曲ばかり。
短調の曲だといっても、感傷的なのではない。誤解をおそれず、あえていえば「大いなる慰め」の音楽なのです。
ことばのない自由な世界。
「ああ、ああ。知っている。こんな感情をかつて味わったこと。これまで生きてきた60年のどこかで、出会って、胸の奥深くへしまいこんだこと」
短調の音楽はわたしを過去へとつれ戻す。わたし自身の痛切な体験であったもの。あるいは小さなささやきであったり、通りすがりの人のつぶやきであったりしたもの。わたしは回想し、あらためて体験し直す。悲しみやよろこびの断片が、水に浮かぶ木の葉のように流れてゆく。
それは手ですくってつかみ出すことはできない。
わたしは聴き、そして見ている。
そうすることしかできないのが、とてももどかしい。
「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調 作品102」
ブラームスはなぜこんなものを書いたのだろう?
わたしはそこに立ち止まる。短調の曲は、その多くが、聴く人を内省の淵に誘い込む。
※耳長姫とはわたしの夢に出てきた、手のひらサイズのお姫様。耳がウサギみたいにどんどん大きくなって、その耳を翼のように羽ばたかせ、やがて生れ故郷の月へと帰っていく。