
mixi、gooの「二草庵摘録」に書いてきた詩が100編を超えている。
こういう表現の横書きにははじめ抵抗があったが、いまではずいぶん慣れた。
とっくの昔に捨てたはずの詩的言語が、いまになって甦ってきたのなぜだろう。
それは一口にいえば、コミュニケーション言語では表出できない、あるわだかまりが、わたしの胸の中にあるからである。悲しみといってもいいし、歎きといってもいいが、こういう表現の方法によらなければ、わたしはその胸の底に降り立つことができない。
五大皆響き有り
十界に言語を具す
六塵悉く文字なり
法身は是れ実相なり
これは弘法大師空海「声字実相義」という書物の中の一節。
現代語訳すると、こうなる。
「五種の存在要素(五大)には、みな響きがある。十種の世界(十界)は、言葉をもっている。六種の認識対象(六塵)は、ことごとく文字である。さとりの当体(法身)とは、実相のことである。」
わたしには空海のような確信というか、見極めはないけれど「六種の認識対象(六塵)は、ことごとく文字である」というあたりに、超俗の修行者空海の真骨頂が存在している。
あなたはだれですか?
・・・という問いを発したとしよう。
本名は***で、年齢**才、男性、身長は、体重は――といってみたところで、「そこ」にわたしはいない。ではどこにいるのかというと、ことばの中に住んでいるのである。
というと、少しいいすぎで正確さに欠けるようにも感じられはするが、半面の真理を衝いているとおもわれる。
この場合、ことばという概念の中に、音楽や写真を包摂しうる・・・そういう意味でのことばである。わたしは詩的言語をたぐりよせることによって、自身の心の底に降り立つことができる。自意識の鏡では到底映しだすことができない、いわば「鏡の裏側」のような場所。
そこに「もうひとりのわたし」が住んでいる。
100編を超えたので、つぎの詩的展開を考えるようになった。
「夜への階段」をひとまず終了させ、あたらしい段階を目指す。
そんな気分を、数日前から感じるようになった。
さてさて、つぎはどうしよう?
詩集のタイトルを「モーツァルト日和」とし、気分一新(^-^)
となったらいいのだけれど。しかし、このタイトルは作品ですでに使用してしまったのが難点。いましばらく構想をねってみよう。
ところで、「夜への階段」の4回目のINDEXをつぎに掲げる。
知らぬまに、こんなにたまってしまった(^^;)
104.たまり水(1/27)
103.決着(1/20)
102.青空の中の月(1/6)
101.ひとり暮らし(1/6)
100.村田屋のうどん(12/26)
99.風車小屋だよりのかたわらで(12/9)
98.永遠のこちら側(12/9)
97.悲観的なバラード(12/2)
96.夢の浮き橋(11/25)
95.涙の理由(11/22)
94.面影町界隈(11/10)
93.別れは突然やってくる(11/4)
92.遠くからやってくるもの(10/28)
91.少しおくてついてくる(10/21)
90.夢のあとさき(10/7)
89.死んだウサギに(9/29)
88.残暑きびしき折り(9/16)
87.不思議な消しゴム(9/16)
86.感傷的なワルツ(9/16)
85.猫町をもとめて(8/31)
84.うろこ雲(8/30)
83.もの名を唱える(8/26)
82.火の鳥はやってこない(8/19)
81.やがてロープの端から(8/19)
80.暮坂あたり(8/17)
79.涙なんか流したことがないように(8/14)
78.ONCE UPON A TIME(8/11)
77.この驚嘆すべき透明さを見ろよ(8/10)
※詩集「夜への階段」INDEX-3はこちら。
http://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/a22a981878f10024e884bf9b6ac5b00f