二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

昭和の生き残りが消えてゆく

2013年02月09日 | Blog & Photo

つぶやきでも書いたように、2012年12月に、写真界の大御所的存在だった東松照明さんが亡くなった。大御所といっても、土門さんや木村伊兵衛さんのように、お弟子さんたちに囲まれていたわけではない。
どちらかといえば、一匹狼タイプ。最期は沖縄の病院で迎えたとのこと。
奈良原一高や細江英公とならぶ「VIVO」の代表的なメンバーで、森山大道、中平卓馬、荒木経惟はじめ、あとからつづく新鋭に大きな影響をあたえた。
岩波写真文庫でもいい仕事をしたし、沖縄を6×6で撮った「太陽の鉛筆」も、すばらしい仕事だった。いまからみると主として「LIFE」がつくりあげた写真ジャーナリズムの時代色が背景に強くただよっているのは否定できないものの、単純な意味での報道写真家ではない。

「〈11時02分〉NAGASAKI」や「おお!新宿」をはじめて眼にしたときのことを、つい数年前のことのように思い出す。東松さんや奈良原さんの活躍によって、写真はそのもっとも輝かしかった時代の幕が切って落とされたのだ。
画像検索すれば、東松さんの代表作を閲覧することができる。60年代70年代を通じ、教祖のように若手の写真家たちを吸い寄せる力があった。むろん、この人を抜きにして、わが国の戦後写真史は語ることができない。

10月に小説家・英文学者・エッセイストの丸谷才一さんも逝去し、戦後の写真界、文学界、音楽界をひっぱってきた「大物」が、姿を消してしまった。3月には、思想界の巨人といわれる吉本隆明さんが亡くなっているし、音楽批評の分野で巨大な足跡をのこした吉田秀和さんも亡くなった。
昭和の生き残りが、ここへきて、つぎつぎと消えてゆくのは、ほんとうに淋しいことである。

こういう大物というか、ある意味の「巨匠」は、もう出現しないだろう。21世紀はよく巨匠を必要としない、あるいはそういう人物を生み出さない時代だといわれる。わたしも、その説におおむね同意する。人間が小振りになってゆくのはどうしてだろう? 政治家や音楽家の場合でも、ほぼ同じ現象が起こっている。

その理由のひとつに、時代を広汎に巻き込んでゆくメインストリームの消滅という現象がある。つまり、社会を共通にくくり、論断できるような「中心」がなくなって、多数を巻き込むコンセンサスが成立しずらくなり、あらゆる分野であらゆる人びとが、有名人であると否とを問わず、周縁化を強いられているように感じられる。権威の凋落であり、ものと人の断片化、部品化である。
わたし自身は「この時代をどうとらえるか」という発想そのものを、すでに失っている。ネット社会の深化が、それに拍車をかけている。上下関係がうすれ、連帯感もうすれて、存在感のない孤独な人間が巷を彷徨している。これはポーやボードレールが定義した群衆とは、かなり違った、眼には見えにくい“群衆”の登場なのだ、きっと。

さて、これからわれわれ日本人(このいい方はいかにも大雑把すぎるが)は、あるいはあなたやわたしは、どこへ向かおうとしているのだろう?
老大家の死をきっかけにそんなヤクザな考えで頭の中がいっぱいになった(^^;)



※東松さんの肖像はネット検索し、海外サイトからお借りしました。ありがとうございました。

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