二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

骨を食べる

2012年12月20日 | Blog & Photo
<あれれ、おじいちゃんの顔の色と、ベンチの色が同じ!>



「つぶやき」欄でマイミクいーさんにレスを書きながら、ある光景が、沼の底から浮かんでくる泡のように、わたしの記憶に甦ってきた。
それは6、7年前の斎場での出来事。
わたしは身内の葬儀に列席し、そのあと、斎場へついていった。
亡くなったのはわたしの義母。
義母の骨がお釜から出てきて、その骨を拾い、骨壺に納めるというとき。二女がハンドバッグからハンカチを取りだし、骨壺の骨とは別に、二、三片の骨をつつんで、バッグに入れた。

長女=妻が「どうするの、その骨」と妹に訊くと、「お守りに入れて、肌身はなさず持ち歩く」と彼女は応えた。しかし、それだけではなかった。
骨のもろい部分を口にふくみ、バリバリと食べて、飲み下した。
他の家族の前で、彼女はそれをしたのである。「これで、ほんとうに一心同体だわ」
彼女はそのとき、そういう意味のことを独り言のようにいった。わたしはそのときは、無言のままだった。あっけにとられてしまって、どういうべきかわからなかった。

愛する人を見送ったあとのつらさ、悲しみ。
それを「骨を食べる」というふうにして乗り越えようとしたのだろう。映画かテレビでそんなシーンをみたことがあったのかも知れない。そして、だれも見ていないところでその行為をするのではなく、人前でやることに、本人にしかわからない意味がある。

わたしは両親が死んだら、その骨か灰の一握りをもらって帰り、わが家の庭に半分、利根川に半分撒くつもりである。1年くらいまえから、そんな考えにとりつかれるようになった(^^;)
生と死の境界は、ほんの一またぎ。生まれて死に、また生まれ、死んでゆく。
人間の生命はそこで途切れるように見えるが、生まれてきた地球・・・この土地に還るのである。
「般若心経」という、短いがとても有名なお経がある。
「空の思想」を説いたものといわれ、ほかにも「五蘊」とはなにか、「受想行識」とはなにか、むずかしく考えれば一冊の本ができあがるが、要するにここに仏教理念が凝縮されている。
漢訳された代表的なテキスト(全文)を示すと、つぎのようになり、これを音読みすると、そのまま「お経」になる。

觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經

ここには「涅槃」という考えが書かれていて、むずかしくいえばきりがないし、「般若心経」の本は掃いてすてるほど出回っている。
この教典は宗派を問わず使用されているので、一度も読んだことがない、あるいは聞いたことがないという人はいないだろう。



空を見る。空に浮かぶ白い雲を見る。風が吹く。雨や雪が降る。川は流れ、海に注ぐ。海も流れている。地球上の生命をつくり出したのは地球のいとなみなので、死んだら人間はそこにもどってゆく。
ごく簡単にいってしまえば、そういうことだろうと、わたしはおもう。
中世の日本人はそれを「無常」といったのである。

秋が終るころ、ほんとうは地球は生き物の死体や、枯れ葉でうめつくされるはずだが、そうはならない。他の生き物の食べ物になったり、腐敗して分子レベルに分解されたりする。だから、初冬になって、死体でこの地表がうめつくされはしないのである。チョウやハチの死骸をアリが運んでいく光景を眼にしたときは「ああ、こうして片づけられていくんだ」とおもうが、そんなささいなこと、すぐに忘れてしまう。
その生命体を形成していた分子は消えてなくなるのではなく、形を変えて、この地球上にとどまる。



これはさっき、会社のそばの畑にあった白菜を撮ったもの。
この白菜の写真を見ていると、空撮された川の流域のようにも、生き物の動脈・静脈のように見えてくる。人間の体は血液が循環している。血液が循環し、細胞の一つひとつに酸素や、生体を維持する養分をとどけ、老廃物を運搬して排出する。
では血液とはなにか?
その大部分は水。その水はどこからきたか・・・。

人間の身体には、水分や空気がつねに出入りしている。そういう側面から考えていくと、人間の身体そのものが、地球の循環系の一端であることがわかるだろう。
だから・・・死とは、水を比喩で使えば、蒸発して水蒸気となり見えなくなったようなものかもしれない。仏教とは、宗派によってなかなかひとくくりにはできない部分があるとはいえ、ごく大雑把にいえば、こういう現象を思想としてとらえなおしたものなのである。

枯れて粉々になった葉っぱや、数年前に死んでしまった愛犬はどこへいってしまったのか? それは本来あるべき場所へもどったのであろう。姿を変えて。
だから、散骨とはとても合理的な考え方だといっていい。生と死は、ある一つのものの、表と裏なのだ。

わたしの義妹は毎朝、木魚をたたき、般若心経を唱えるのを日課としている。
それは生前の母がやっていたことを、そのまま引き継いでいるのである。
陰膳を供え、仏壇に向かって話しかける。彼女の心の中でも身体の中でも、母はいまもきっと、生々しく生きているのだ。他の人には決して「見えない」けれど。

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