二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

“優遊自適”の人 ~永井荷風のかたわらで(5)

2019年06月30日 | エッセイ(国内)
「日和下駄」を最初に読んだのはいつのことであったか? 
わたしはこの本を読む以前から、カメラをさげて友人とよく東京へ出かけ、おもに下町をほっつき歩いたものだ。
いま読み返しながら、このエッセイは、「断腸亭日乗」は別格としても「墨東綺譚」とならぶ荷風の代表作であるとの感を深くしているところだ。

鴎外、漱石の名品と較べてもなんら見劣りしない秀作である。
こういう本を大正4年、36歳のとき刊行しているのだ。
20代のはじめから写真を撮りつづけ、街撮りにこだわって「郷土遊覧記」を何年もやっているわたしの眼から見て、興味つきない町へのたおやかな視線がここにある。

“優遊自適”と彼はいう。おもしろいことばだなあ、こんな人物ほかにいない。しかも、大正3-4年というこの時代に。
最近になって、多くの人たちが彼にようやく追いついた、ということだろう。
観光名所ではない、自分の町や人びとの生活を発見し、そこに執着する。
“一人暮らしの荷風”というのも、この十数年になって見直されてきたキーワード。ここでも、時代が彼に追いついた。

荷風の中には、若いころから一人のフォトグラファーが棲んでいた。
彼の散歩は「一人歩き」なのだ。

《市中の道を行くには必ずしも市設の電車に乗らねばならぬと極まったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として闊歩すべき道はいくらもある。
それと同じように現代の生活は亜米利加(アメリカ)風の努力主義を以てせざれば食えないと極まったものでもない。
髯(ひげ)を生やし洋服を着てコケを脅そうという田舎紳士風の野心さえ起こさなければ、よしや身に一銭の蓄えなく、友人と称する共謀者、先輩若しくは親分と称する阿諛(あゆ)の目的物なぞ一切皆無たりとも、猶(なお)優遊自適の生活を営む方法は尠(すくな)くはあるまい》(「日和下駄」講談社学芸文庫19ページより。ふりがな、改行をほどこしています)

お読みになったことがない読者のために、一応目次を紹介しておこう。


第一 日和下駄
第二 淫祠(いんし)
第三 樹
第四 地図
第五 寺
第六 水 (附 渡船)
第七 路地
第八 閑地
第九 崖
第十 坂
第十一 夕陽(附 富士眺望)

・・・である。
講談社学芸文庫版では、さらに「日和下駄異文」と随筆抄六編が収録されている。

向島
百花園
上野
帝国劇場のオペラ
申訳
巷の声

地図は「江戸切図」を携えていることが多かったようだ。

《蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中(ふところ)にする。これは何も今時出版する石版摺の東京地図を嫌って殊更昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄を曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引き合わせ行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目(ま)のあたり比較対照することができるからである》(本書33ページ)

つまり彼の背後には江戸二百七十年の文化が、分厚い地層のように堆積している。失われゆくものへの哀惜。
荷風の眼には、たえず二重像となって、うるわしき江戸、爛熟した庶民の文化と愛おしき風景が映じている。この時代の“現代”に背を向け、彼は過去と対話しながら歩いてゆく。
そういう散歩なのだ。

過去へ、過去へとさかのぼっていく散歩。
淫祠って何だ!? このことばを、わたしは彼に教わった。
巨樹の山の手、水辺の下町・・・それを最初に発見したのも、荷風であったのだろう。
現代人はすぐに「観光資源」などというが、彼のまなざしは、観光資源にはなりえない、もっと普遍的で、たおやかで、移ろいやすいものにこそ注がれていたのだ。
いま書きとめておかねば消えてしまう。いや、もう消えてしまった。

彼は過去を想起する。そのために「日和下駄」を書いているのだ。
しかし、近ごろの人は、永井荷風を読みこなすのに手を焼くだろう。なぜなら、現代人の日本語力はきわめて貧相なものだからだ。
ネット上の日記やブログを読んでいると、皆さん驚くほどことば(語彙)を知らない。一年間一冊も本を読まない人が、日本人の2/3にもおよぶという記事をどこかで眼にしたことがある。
では英語、あるいはフランス語、中国語に堪能なのかといえば、そうではない。悲惨な現状というべきだろう。

わたしの日本語力も大したものではないが、せめて荷風さんのいた場所まで・・・そのあたりまでは出かけてみたいと痛切に願う。
「日和下駄」の東京はついこのあいだの日本であり、東京なのだから。

“優遊自適”の人、永井荷風。
彼から学ばねばならぬことは、まだまだ多い・・・多すぎるくらいだなあ。






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