里山にヤマボウシの花が咲く季節
ぼくは長いあいだ暮らした女と別れて
ひとり暮らしにもどった。
西の空に紫雲がたなびき エゾハルゼミかヒグラシが鳴きしきる夕方。
不幸についてはいろいろと学んできた。
映画やテレビや小説の中で。
しかし 幸福について学んでこなかったため
ぼくはいまだに幸福がわからない。
幸福論というタイトルの本は掃いてすてるほど刊行されているが
不幸論というタイトルの本はこれまで読んだことがないし
見たこともない なぜだろう
そのとき著者は幸福だったのか?
幸福は馬の鼻面にぶらさがったニンジンのようなものかもしれないが
では食べやすいようにきざんで煮れば食えるのか?
著者はそれぞれレシピをつくって
甘いとか辛いとか テキトーに味付けして「幸福について」語る。
だから幸福は 話にはよく聞くが
だれも食べたことのない料理に似ている。
では・・・ぼくはどうしたかというと
「いまが幸福の絶頂なのだ」といいきかせながら生きてきた。
そのときもそう考えた。
つじつまが合わなくても 強引に合わせることで呼吸がラクになる。
日溜まりで一匹の猫が 体を丸めて寝そべっている。
わかりやすいイメージでいえば それがぼくの幸福論だった。
大胆にいってのければ それだけのことなのである。
蠅がどこからか飛んできて猫の耳にとまる。
蠅は猫にはなれないな あたりまえだけれど。
ずいぶん苦労をして悟りをひらこうとした禅の坊さんが
濡れ縁の日溜まりにいる猫を見て
とつぜん笑い出す。眼に涙を浮かべぬばかりにして。
遠い日の午後。
エゾハルゼミかヒグラシが林間でさかんに鳴いている。
樹影は濃く 坂道はまだ だらだらとつづいている。
ぼくが投げた紙ヒコーキが十数年ぶりに姿をあらわし
坊さんの禿頭にぶつかって 庭に落ちるわずかな間。
そのまばたきに等しい瞬間に じつは十数年が過ぎている。
それが妻とぼくのあいだに流れた時間の実態だった
――といえばいえるであろう。
幸福はどこか遠くにあるのではなく
いまここにある。
ぼくもまた日溜まりの猫にはなれないけれど
ぼくは ますます幸福になっていく。
ただ幸福な人がすべて(ほとんどすべて)そうであるように
幸福な人はじつは 少しも幸福にはみえない。
大きかろうが 小さかろうが
幸福には色もにおいも形もないし
蹴とばしたり 手で掴んだりもできないのだから。
※写真と詩のあいだには、直接的な関係はなんらありません。