被写体として、モノをそれ自体として撮影することが、わたしの場合少ない。
昨日の日記の流れで最近作を見直して、それがはっきりしてきた。
たとえば、大胡で撮ったこれ。

よくある「廃車のある光景」なのだが、廃車そのものを撮ろうとするより、
廃車のある光景・・・つまりランドスケープにしようという意図がありあり(^^;)

あるいは、桐生で見かけたこっちの一枚。
ここは廃屋。その庭に、雑草が生い茂り、子ども向けの小さなポリ浴槽がひとつ。
水がたまって、アオミドロのようなものが繁殖している。
これも、ジャンル分けすれば、ソシアル・ランドスケープだろう。
また。
高崎の映画館跡地で見かけた白い傘。

解体途中で、ながらく放置され、まるで町中の「さらし者」なのだ。
だれがいつ、こんな傘をここに置いたのか。
これも「モノ写真」として撮れなくはないのに、むりやり風景にしようとしている。
ただ、つぎの2枚は、モノとしての被写体と向かい合って、いさぎよく撮影している。
どちらも「鉄製品」で共通。サビのつき具合や、腐食が時間の経過を語る。

高崎で見かけた鉄扉。

LX5を買った日に試し撮りした水門開閉用の大型レバー(・・・たぶん)。
街歩きをしてくると、おおよそ5%くらいの比率で「モノ」が写っている。
しかし、大抵は「つまらん」と感じて、捨ててしまう。
なにを写そうとしているのか?
どう写そうとしているのか?
このへんは、へ理屈で考えても仕方のない、直感力の支配する世界なのだろう。
「へたな考え、休むに似たり」
あるいは、固定観念という敵との前線のようにも思われる。
いい写真はたまには撮れるが、おもしろい写真を撮るのは、ほんとうにむずかしい。
わたしが「私という存在」から逃れられないのと同様、このあたりが、越境不可能な壁の在処といっていいのかも知れない。
へんな写真を撮れば、それがおもしろいのか。おもしろがれるのか?
デジタル時代になって、大量に写真(画像)を消費するようになったから、逆に自分が必要とする写真(画像)が見えにくくなったともいえる。
・・・さて、今日もなにか被写体を探しに出かけてみよう。地図が役にたたない街角へ。
昨日の日記の流れで最近作を見直して、それがはっきりしてきた。
たとえば、大胡で撮ったこれ。

よくある「廃車のある光景」なのだが、廃車そのものを撮ろうとするより、
廃車のある光景・・・つまりランドスケープにしようという意図がありあり(^^;)

あるいは、桐生で見かけたこっちの一枚。
ここは廃屋。その庭に、雑草が生い茂り、子ども向けの小さなポリ浴槽がひとつ。
水がたまって、アオミドロのようなものが繁殖している。
これも、ジャンル分けすれば、ソシアル・ランドスケープだろう。
また。
高崎の映画館跡地で見かけた白い傘。

解体途中で、ながらく放置され、まるで町中の「さらし者」なのだ。
だれがいつ、こんな傘をここに置いたのか。
これも「モノ写真」として撮れなくはないのに、むりやり風景にしようとしている。
ただ、つぎの2枚は、モノとしての被写体と向かい合って、いさぎよく撮影している。
どちらも「鉄製品」で共通。サビのつき具合や、腐食が時間の経過を語る。

高崎で見かけた鉄扉。

LX5を買った日に試し撮りした水門開閉用の大型レバー(・・・たぶん)。
街歩きをしてくると、おおよそ5%くらいの比率で「モノ」が写っている。
しかし、大抵は「つまらん」と感じて、捨ててしまう。
なにを写そうとしているのか?
どう写そうとしているのか?
このへんは、へ理屈で考えても仕方のない、直感力の支配する世界なのだろう。
「へたな考え、休むに似たり」
あるいは、固定観念という敵との前線のようにも思われる。
いい写真はたまには撮れるが、おもしろい写真を撮るのは、ほんとうにむずかしい。
わたしが「私という存在」から逃れられないのと同様、このあたりが、越境不可能な壁の在処といっていいのかも知れない。
へんな写真を撮れば、それがおもしろいのか。おもしろがれるのか?
デジタル時代になって、大量に写真(画像)を消費するようになったから、逆に自分が必要とする写真(画像)が見えにくくなったともいえる。
・・・さて、今日もなにか被写体を探しに出かけてみよう。地図が役にたたない街角へ。