二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

平日写真家 ~写真論風に

2010年12月07日 | Blog & Photo
「こんどはどこへでかけようかな?」
そう考えながら、パソコンのなかの地図を眺める。
旧市街が残っているような、興味深い街角があるのは、
どの町のどのあたりだろう。
散歩写真だとか、いなかのフラヌールだとか・・・まあ、表現はいろいろだけれど、
わたしは平日の、何の変哲もないような、古さびた街角が撮りたいのである。

1.観光地、あるいは、拝観料を払わねばならない旧跡はだめ。先方が見せたいものしか見せてはくれないから。
2.区画整理あるいは、再開発がすすんで、画一化の際だつ街区はだめ。何の情緒も誘発しないから。
3.「祭り日」のようなイベントの町はだめ。わたしが撮りたいのは、年に1回だけの「特別な日」じゃないから。

このところ、森山さんと荒木さんの写真を少し見直してみたのだけれど、
その違いのひとつが、「コト」を撮るのか「モノ」を撮るのかにあることがわかってきた。
森山さんは「モノ」しか撮らない。それはかなり徹底していると思う。
ところが荒木さんは、「モノ」に「コト」をからめていく。写真に物語性をもとめている。
森山さんは、ストーリー性を峻拒しながら、迫力のあるイメージを大量にあつめて、見る者の固定概念をゆさぶっていくのだ。
森山さんの写真は、「モノ」それ自体が、眼につきささるような鋭利な断片と化して、日常がもっている不安な亀裂を露呈させる。時間は止まっていて、あらゆる光景は化石のように、現実的であり、同時に非現実的となっていく。

荒木さんは、時間を止めはしない。
いや、スチールである以上、止まってはいるのだけれど、ある流れの一瞬をすくいとるように写していく。だからしばしば、「モノ」と「コト」のコラボレーションが生まれてくるのだ。写真集をずっと眺めていくと、そこには荒木さんがつくり出していくストーリーが浮かび上がる。それは処女作「さっちん」から、ずっと変わらないといっていいだろう。
「モノ」だけで構成しようとした写真集もあるけれど、はっきりいって失敗作。いや、「モノ」のすぐ隣に「コト」が透けて見えてしまうのだ。

久しぶりに「写真のど真ん中」に帰ってきたわたしが気になりはじめたのは、そのあたり。
決定的一瞬を捉えた単写真ではなく、自分が見たものを、アルバムとして、写真集のように構成したくなって、平日アマチュア写真家としてのsyugenはあれこれと頭を悩ましている。まあ、これまでの写真に、+αが欲しいのですね(笑)。
だれもが撮るような「ふつうにキレイな風景」は飽きてしまっているし、
トイフォト(あるいはフィルター)で遊ぼうとか、ソシアル・ランドスケープをノーファインダで撮ろうとか、「街中の植物」シリーズをはじめてみようとか、いろいろと・・・。

自分の写真がやっぱり「型にはまってるじゃねえか」と思えるようになると、
撮影意欲が衰えていく。ゆさぶれ! ゆさぶれ!
固定概念から逃れて、右往左往しているうち、これまでとは少し違った日常の地平線が見えないとも限らないのだから。そうでもないかな?
ことばとしてはカンタンだけれど、固定概念はそう容易くは壊れはしないから「固定概念」と呼ばれるのだからねぇ^^;





これは高崎の「街歩き」の二枚。
主役は「影」。
だけど、このまなざしでは、まだ「壊れかた」が足りない・・・と思いはじめているのだ(笑)。
さあて、つぎは。
そうだ、足利がまだだったなあ。

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