ここ数年で、デジ一はむろん、コンデジですら、ISO感度の常用域がアップし、
街撮りの延長としての夕景、夜景にはまっている。
マイミクのMar⌒☆さんや岡山太郎さんのようなネイチャー(あいまいなことばだが)としての写真ではなく、日常の生活空間の中にある被写体を、用事で出かけたついでなどに拾いあつめているのだ。
見る者を感動させるような風景写真は、まったくのところ、体力、行動力の産物。
まあ、20年も若かったら、このデジタル画像・映像革新のニューウェーブにのって、
四駆にフルサイズのデジ一やら、巨大な望遠レンズを積み込んで、遠方の撮影ポイントへと疾駆したかもしれないが・・・。
感度がupすると、いままで三脚が必須とされたシーンを、手持ちで撮ることができる。
わたしのようなベテラン(古いカメラマン)には、そこが、じつにフレッシュに見える。
高感度域に強い1台のカメラを手にいれたことで、わたしの「まなざし」まで変わってしまう。
写真のドラマチック・シーンはだれでも撮りたがる美しさに満ちている。
わたし的には、たとえばこれ。
このラブホが、もうちょっとゴシックめいた建築物ならよかったのに・・・と、つい考えてしまう。たとえば、ドラキュラの城のように(笑)。
どちらかといえば、これも「ドラマチック」といえるだろう。
寒冷前線の「線」が眼に見えてしまったような一枚なのだから。
しかし、生活の周辺は、こういったドラマチック・シーンばかりで満たされているわけじゃない・・・当然のことである。
というわけで、「アンチドラマチック・シーン」の中にも、写真的におもしろいものはないかと、そんなことを考えはじめているが、まだあまりうまくいっていない。
たとえば、これ。
中心となる被写体がなにもない、漫然とした構成の一枚。
あえてキーワードをさがせば、「境界線」となるが、まことに中途半端なフレーミング。
だけど――そこんところが、おもしろいんだよなぁ、と本人は感じている(^_^)/~
こっちもそう。
空に不可解な「青み」が残った、駐車場の一角。
アンチドラマチックの最たる一枚だという気がして、撮影してみた。
アンチドラマチック・シーンのおもしろさ。
昨日俳諧を引用したので、もういちど、有名な句を例にあげよう。
旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる
白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
上は芭蕉さんの、下は蕪村さんの「辞世の句」とされる作品。
(辞世の句というのは、事前に準備しておくものらしいが)。
わたしが「なるほど」と思ったのは、蕪村さんの、このアンチドラマチック(アンチクライマックス)ぶり。
そばには、病床を看取る女や弟子がいるのだろうか?
それにしても、白梅・・・とはね。
いかにも蕪村さんらしい、末期の眼の向こうに浮かぶ白梅。
出会いや別れや、旅や貧困や、読書や絵画や、病とのたたかいや、――とにかくいろんなことがあって、68歳で末期を迎えようとするこの文人の心を、あれこれと忖度してみる。
アンチドラマチックの味わい。
日常のさりげないアンチドラマチックのなかに隠された一瞬、一瞬の光芒・・・それは写真で表現することができる、と、近ごろそんな想いにかられている。
街撮りの延長としての夕景、夜景にはまっている。
マイミクのMar⌒☆さんや岡山太郎さんのようなネイチャー(あいまいなことばだが)としての写真ではなく、日常の生活空間の中にある被写体を、用事で出かけたついでなどに拾いあつめているのだ。
見る者を感動させるような風景写真は、まったくのところ、体力、行動力の産物。
まあ、20年も若かったら、このデジタル画像・映像革新のニューウェーブにのって、
四駆にフルサイズのデジ一やら、巨大な望遠レンズを積み込んで、遠方の撮影ポイントへと疾駆したかもしれないが・・・。
感度がupすると、いままで三脚が必須とされたシーンを、手持ちで撮ることができる。
わたしのようなベテラン(古いカメラマン)には、そこが、じつにフレッシュに見える。
高感度域に強い1台のカメラを手にいれたことで、わたしの「まなざし」まで変わってしまう。
写真のドラマチック・シーンはだれでも撮りたがる美しさに満ちている。
わたし的には、たとえばこれ。
このラブホが、もうちょっとゴシックめいた建築物ならよかったのに・・・と、つい考えてしまう。たとえば、ドラキュラの城のように(笑)。
どちらかといえば、これも「ドラマチック」といえるだろう。
寒冷前線の「線」が眼に見えてしまったような一枚なのだから。
しかし、生活の周辺は、こういったドラマチック・シーンばかりで満たされているわけじゃない・・・当然のことである。
というわけで、「アンチドラマチック・シーン」の中にも、写真的におもしろいものはないかと、そんなことを考えはじめているが、まだあまりうまくいっていない。
たとえば、これ。
中心となる被写体がなにもない、漫然とした構成の一枚。
あえてキーワードをさがせば、「境界線」となるが、まことに中途半端なフレーミング。
だけど――そこんところが、おもしろいんだよなぁ、と本人は感じている(^_^)/~
こっちもそう。
空に不可解な「青み」が残った、駐車場の一角。
アンチドラマチックの最たる一枚だという気がして、撮影してみた。
アンチドラマチック・シーンのおもしろさ。
昨日俳諧を引用したので、もういちど、有名な句を例にあげよう。
旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる
白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
上は芭蕉さんの、下は蕪村さんの「辞世の句」とされる作品。
(辞世の句というのは、事前に準備しておくものらしいが)。
わたしが「なるほど」と思ったのは、蕪村さんの、このアンチドラマチック(アンチクライマックス)ぶり。
そばには、病床を看取る女や弟子がいるのだろうか?
それにしても、白梅・・・とはね。
いかにも蕪村さんらしい、末期の眼の向こうに浮かぶ白梅。
出会いや別れや、旅や貧困や、読書や絵画や、病とのたたかいや、――とにかくいろんなことがあって、68歳で末期を迎えようとするこの文人の心を、あれこれと忖度してみる。
アンチドラマチックの味わい。
日常のさりげないアンチドラマチックのなかに隠された一瞬、一瞬の光芒・・・それは写真で表現することができる、と、近ごろそんな想いにかられている。