今年も近隣の神社に咲く御衣黄桜(ぎょいこうざくら)に、運よくめぐり逢うことができた。
つまり、この1年、なんとか、かんとか、生き延びてきたということで、
いろいろな幸運や、周辺の人びとに、黙って感謝を捧げざるをえない。
来年ふたたび、この桜にめぐり逢えるように・・・と、そんな気持ちがじんわりと心にわき上がる。

この桜はググってみたら、どうやら園芸品種のようだ。
どの程度めずらしいのか、よくはわからない。わたしは園芸家でもないし、ガーデニングの愛好家でもないから、アマチュアカメラマンとして、こういう植物に逢いに出かけていく。以前も書いたように、カメラアイは、カメラ・愛。
フォトジェニックなものをもとめて、カメラ片手に、ハンターのように、あちこち歩きまわり、生活の端っこにあるフラグメントをひろい集めていく。自意識から逃れでて、なるべく遠く(距離的にではなく、心理的に・・・)までいくこと。
わたしという存在は、それ自体として存在するのではなく、周辺環境との相関関係の中に、きわめてあいまいな形で存在する影のようなものかもしれない。
つぎにあげる光景も、半分は・・・いや1/3は、わたしがつくりだした幻影のようなものだ。
凝視すればするほど、植物とは不可解な生命だとおもう。
動物は植物に依存して、いまの繁栄を獲得しえたのだ。そのことを忘れないようにしよう。

(本堂の裏に回り込んだら・・・光と影が演ずるドラマの真っ最中)

(古くなった壺をのぞきこむ。こ、こんな光景、はじめて見たぞ)

(そうだ、さっき絵描きさんとすれ違った)
現世という名の――ワンダーランド。
「来年また、この桜にめぐり逢えますように」
それは祈りというより、疲れたときなどにときおり唱える、ある種の呪文ににている。
つまり、この1年、なんとか、かんとか、生き延びてきたということで、
いろいろな幸運や、周辺の人びとに、黙って感謝を捧げざるをえない。
来年ふたたび、この桜にめぐり逢えるように・・・と、そんな気持ちがじんわりと心にわき上がる。

この桜はググってみたら、どうやら園芸品種のようだ。
どの程度めずらしいのか、よくはわからない。わたしは園芸家でもないし、ガーデニングの愛好家でもないから、アマチュアカメラマンとして、こういう植物に逢いに出かけていく。以前も書いたように、カメラアイは、カメラ・愛。
フォトジェニックなものをもとめて、カメラ片手に、ハンターのように、あちこち歩きまわり、生活の端っこにあるフラグメントをひろい集めていく。自意識から逃れでて、なるべく遠く(距離的にではなく、心理的に・・・)までいくこと。
わたしという存在は、それ自体として存在するのではなく、周辺環境との相関関係の中に、きわめてあいまいな形で存在する影のようなものかもしれない。
つぎにあげる光景も、半分は・・・いや1/3は、わたしがつくりだした幻影のようなものだ。
凝視すればするほど、植物とは不可解な生命だとおもう。
動物は植物に依存して、いまの繁栄を獲得しえたのだ。そのことを忘れないようにしよう。

(本堂の裏に回り込んだら・・・光と影が演ずるドラマの真っ最中)

(古くなった壺をのぞきこむ。こ、こんな光景、はじめて見たぞ)

(そうだ、さっき絵描きさんとすれ違った)
現世という名の――ワンダーランド。
「来年また、この桜にめぐり逢えますように」
それは祈りというより、疲れたときなどにときおり唱える、ある種の呪文ににている。