ほんとうは、大人の出る幕はもうないのである。
舞台の袖に引っ込んでいればいい。
「あんたの出番は、もうとっくに終わっているのですよ。なんで、それに気がつかないんだろう。自惚れて、自惚れて。さてさて、なにがしたいの? なにをするの?」
これまで撮影したFhotoを眺めながら、そんな想いにとらわれる。
セイショウナゴンさんにも、ウラベカネヨシさんにも、子どもはいなかった。
子どもが歴史の表舞台に登場するのは、そんなに古い時代のことではない。
だけど、地球の未来を担うのは、間違いなく、こういった子どもたち。
五十、六十のじいさん、ばあさんは、いつまでも出しゃばっていないで、主役の座を、
これら次世代にゆずって、脇役となり、シナリオライターとなり、裏方となり、老いと死に親しむべきである。
「子どもだって、人間である」と最初にいったのは、だれだろう?
時計職人の息子で女ったらしで変態性欲の持ち主だった、フランスのジャン・ジャック・ルソーあたりかしら?
人びとと、子どもたち。
人間が「子ども」でいられるのは、たぶん、ほんのわずかな期間――十年かそこいらなのである。残りの全期間を、人間は「大人として」過ごさねばならない。
戦後文学サイコーの傑作「野火」を書いた大岡昇平流にいえば、すべての男は人殺しであり、すべての女は淫売なのである。
ところがそこには、子どもというカテゴリーが欠けている。