
写真とはなにかを考えるうえで、忘れることのできない感動的なエピソードを発見したので引用しておこう。
「子どもたち」(リブロポート刊 ドアノー写真集)で彼は語っている。
ある日の早朝、まだ眠っていたドアノーのところへ、見知らぬ白髪交じりの訪問者がやってくる。
『「あなたが本に出ていた写真を撮られた方ですか? あの自動車の残骸で遊ぶ子どもたちの」
空き地に座礁したあの壊れた乗り物を、わたしは正確に覚えていた。男の子がひとりハンドルを握り、もうひとりはボンネットに乗っている。小さなふたりは後部座席にちょこんと座り、彼、すなわち私の客人はその日、くるまの屋根によじのぼっていた。
ファイルの中に大判に引き伸ばしたものがあったので、それを彼に譲った。初老の紳士は懐かしそうに、あの車輪のない自動車で自分は生涯で一番美しい旅をしたのだと語った。』
トップに掲げたのが、ここで話題となり、初老の紳士の手に渡った一枚である。
『あの車輪のない自動車で自分は生涯で一番美しい旅をしたのだ』
ドアノーはそのとき、写真家としての手応えやよろこびを噛みしめたに相違ない。
彼がのこした「子どもたち」のすばらしさに、わたしは称賛を惜しまない。戦場写真家でその後スターあつかいされることになるロバート・キャパにも、子どもたちを写した数々の感動的な作品がある。
キャパは戦場で、たくさんの戦争孤児と遭遇する。
戦場写真家キャパと、戦争孤児たちのこころ暖まる交流は、写真集のページからあふれて、見る人たちの胸にことばのない人間味豊かなメッセージをつたえてくる。未来は彼らのものである。
キャパは単に写真を撮るだけでなく、支援者の側にまわり、たしか何人かを養子に迎えているはずである。キャパの子どもへの愛のまなざし――、それを受け止め、子どもたちの存在はさらに輝きをます。
子どもとは、教育すべき未熟者としての子どもではない。
それ自体、独立した人格をもった、愛すべき小さな人間たち。いま初老を迎えているような人たちも、当然ながら、その昔、子どもであったのだ。
ドアノーの写真集に登場する子どもたちは、キャパの写真に負けずおとらず、魅力的である。素直で表情が豊か。好奇心に満ちていて、人生を愉しむ、あるいは悲しむすべを、すでに知っている。
その澄んだ瞳の輝きは、おとなになることが、なにを失うことかを教えてくれる。


☆福山雅治「家族になろうよ」
http://www.youtube.com/watch?v=P7akpging7o
いまの日本は、いつからこうなったのだろう。
街角で子どもにレンズを向けると「うちの子になにをするんですか?」といわれかねないからである。下校時は辻つじに「防犯委員」の腕章を巻いた老人がたたずんでいたりする。じっさいにそんなことをいわれた経験はないけれど、ピリピリした緊張感がたがよっている。
わたしは子どもたちの写真をときどき写しているけれど、公開を保留してある作品がけっこう存在する。子どもをターゲットとした犯罪が、それほど増加しているのだろうか?
保護者の了解を得ずに、見知らぬ子どもをスナップ撮影してはいけないのだろうか?
だとしたら、日本もいやな社会になったものである(^^;) 「あの男は、あの女は何者だろう」と疑心暗鬼にとらわれている。
川べりや原っぱには有刺鉄線が張りめぐらされ、近づけないようにしてある。公園からは「キケンな遊具」が撤去され、ガランとしている。
「なぜTVゲームやマンガばかり読んでいるんだ。たまには外で遊んできなさい」といわれても、子どもの遊び場は大人に徹底的に管理されてしまい、おもしろくもなんともない場所になり果てている。
ほんとうのキケンを知らず、自然のなんたるかを知らず、子どもは大人になってゆく。
ドアノーの写真を見ながら、なんだか哀しい気分に襲われるのは、わたしだけだろうか?
こういう子どもたちは、いま、どこへいってしまったのだろう。
わたしは3年でも5年でも、撮影した写真を寝かせる覚悟をひそかにしている。いつか、それらが、公表できる、そう判断できる日がくるときを願って。