〔註〕gooのblog「二草庵摘録」には「このブログの人気記事」というコーナーが、毎日掲載される。そこで、この日アクセスの多かった記事、トップ10を知ることができる。
大抵の場合は、最新記事がトップ3をしめる。
しかし、それに混じって、過去のいろいろな記事が読まれている。わたしは「あららー、こんなこと書いていたんだね」と、そのブログを思い出す。
mixiの場合は、そういうことはまず起こらないので、ブログがとても息の長いスタイルであることがわかる。
さて『「物の見えたる光」素人の論』を書いたのは、2011年8月11日。これはわたしの写真論であり、詩論でもある。これが昨日第4位に食い込んだ(^^)/
日本でいちばん偉大な詩人といったら、だれだろう?
柿本人麻呂、西行、芭蕉など、数人の名が、すぐに思いうかぶのだけれど、わたしはなんといっても松尾芭蕉だろうと考える。芭蕉は日本の詩歌の伝統の中で、ずばぬけた、他の追随を許さぬ存在であり、これからも、そうであるに違いない。
芭蕉の「俳諧」は、戯曲におけるシェークスピア、小説におけるドストエフスキー、あるいは西洋音楽におけるバッハに比肩しうる表現の最高の達成度をもっている。
このあいだ、ある本を読んでいて、つぎのような芭蕉のことばを思い出した。
“物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし”
服部土芳がしるした「赤冊子」に見える芭蕉のことばとされている。
もうひとつ、わたしが心にきざみつけているのは、芭蕉における不易流行の説。
不易流行とは「千歳不易・一時流行」のいわば短縮形。
“物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし”
ここにいう、「物の見えたる光」とはなんだろう?
わたしは俳句はつくらないし、俳句をキチンと学んだ経験もないから、もしかしたら、見当はずれの「素人の論」になっているかもしれない。
「物の見えたる光」という場合、「物」が見えていることが前提である。そうなると、ここで芭蕉がいう「物」とはなにか・・・と、そこから問う必要が生まれてくる。
しかし。
しかーし、である。
あまりむずかしく考えすぎて、たちすくんでいるあいだにも、時はどんどん流れていくのである。写真を撮るとき、詩を書くとき、わたし三毛ネコは「物の見えたる光」と向かい合っている。とりあえず、そういっていいのではあるまいか。
不易流行の説で考えると、流行を排し、不易に即くとはにわかにはいえない。
不易に習い、流行を見極めるというと、芭蕉の考えに近づくかもしれないなぁ(^^;)
また「三冊子」には、よく知られたつぎのようなことばが見える。
“松のことは松に習え、竹のことは竹に習え”
あたりまえのことを、こうきっぱりと断言されると「うーん、いやはや。恐れ入りました」と頭を下げるしかあるまい。
名言とはすべてこうしたものではあるにしても・・・。
わたしは詩を書くようになってから、ノートを一冊持ち歩いている。カメラもほぼ常時携帯している。「物の見えたる光」がいつわたしを訪れるか、予想できないからである。
詩の場合でいえば、インスピレーションがやってこなければ、詩が書けない。むりに書こうとしても、つまらないものしかできない・・・ということが、経験的によくわかっている。写真においても、事情が似ている。絵画とは違うから、写真を、アトリエに座って、1ヶ月がかり、2ヶ月がかりで描くなんて芸当はだれにだって、できやしない。
物の見えたる光は、出会い頭に一瞬だけあらわれて、消えていく。それをうまくつかまえた人が、その光を語り、指し示す資格をもつ。むろん、素人たるわたしの独断の論ではあるのだけれど。
ちなみに「二草庵摘録」は本日現在、
PV(トータル閲覧数):1,325,794件
IP(トータル訪問者数):341,150件
・・・というあたりを、ゆっくり航行中♪ ご覧いただいている皆様に深く感謝いたします。
(写真は差し替えました)
大抵の場合は、最新記事がトップ3をしめる。
しかし、それに混じって、過去のいろいろな記事が読まれている。わたしは「あららー、こんなこと書いていたんだね」と、そのブログを思い出す。
mixiの場合は、そういうことはまず起こらないので、ブログがとても息の長いスタイルであることがわかる。
さて『「物の見えたる光」素人の論』を書いたのは、2011年8月11日。これはわたしの写真論であり、詩論でもある。これが昨日第4位に食い込んだ(^^)/
日本でいちばん偉大な詩人といったら、だれだろう?
柿本人麻呂、西行、芭蕉など、数人の名が、すぐに思いうかぶのだけれど、わたしはなんといっても松尾芭蕉だろうと考える。芭蕉は日本の詩歌の伝統の中で、ずばぬけた、他の追随を許さぬ存在であり、これからも、そうであるに違いない。
芭蕉の「俳諧」は、戯曲におけるシェークスピア、小説におけるドストエフスキー、あるいは西洋音楽におけるバッハに比肩しうる表現の最高の達成度をもっている。
このあいだ、ある本を読んでいて、つぎのような芭蕉のことばを思い出した。
“物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし”
服部土芳がしるした「赤冊子」に見える芭蕉のことばとされている。
もうひとつ、わたしが心にきざみつけているのは、芭蕉における不易流行の説。
不易流行とは「千歳不易・一時流行」のいわば短縮形。
“物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし”
ここにいう、「物の見えたる光」とはなんだろう?
わたしは俳句はつくらないし、俳句をキチンと学んだ経験もないから、もしかしたら、見当はずれの「素人の論」になっているかもしれない。
「物の見えたる光」という場合、「物」が見えていることが前提である。そうなると、ここで芭蕉がいう「物」とはなにか・・・と、そこから問う必要が生まれてくる。
しかし。
しかーし、である。
あまりむずかしく考えすぎて、たちすくんでいるあいだにも、時はどんどん流れていくのである。写真を撮るとき、詩を書くとき、わたし三毛ネコは「物の見えたる光」と向かい合っている。とりあえず、そういっていいのではあるまいか。
不易流行の説で考えると、流行を排し、不易に即くとはにわかにはいえない。
不易に習い、流行を見極めるというと、芭蕉の考えに近づくかもしれないなぁ(^^;)
また「三冊子」には、よく知られたつぎのようなことばが見える。
“松のことは松に習え、竹のことは竹に習え”
あたりまえのことを、こうきっぱりと断言されると「うーん、いやはや。恐れ入りました」と頭を下げるしかあるまい。
名言とはすべてこうしたものではあるにしても・・・。
わたしは詩を書くようになってから、ノートを一冊持ち歩いている。カメラもほぼ常時携帯している。「物の見えたる光」がいつわたしを訪れるか、予想できないからである。
詩の場合でいえば、インスピレーションがやってこなければ、詩が書けない。むりに書こうとしても、つまらないものしかできない・・・ということが、経験的によくわかっている。写真においても、事情が似ている。絵画とは違うから、写真を、アトリエに座って、1ヶ月がかり、2ヶ月がかりで描くなんて芸当はだれにだって、できやしない。
物の見えたる光は、出会い頭に一瞬だけあらわれて、消えていく。それをうまくつかまえた人が、その光を語り、指し示す資格をもつ。むろん、素人たるわたしの独断の論ではあるのだけれど。
ちなみに「二草庵摘録」は本日現在、
PV(トータル閲覧数):1,325,794件
IP(トータル訪問者数):341,150件
・・・というあたりを、ゆっくり航行中♪ ご覧いただいている皆様に深く感謝いたします。
(写真は差し替えました)