昔から「映りこみ」写真が好きで、気がつくと、よく撮影している。
「お、フォトジェニック!」
こういうのは、歩いて“発見”するものだろうな。
視神経が敏感なときと、そうでないときがある。敏感になっていると、そういった光景が眼に飛び込んでくる。
水たまりがある。クルマやショーウィンドウのガラスや、いろいろな場所に置かれた鏡。あるいは、塗装された新車のボディなんかにも、映り込みが見られる。
こんなものをおもしろがるのは変わっているのかも知れない。
しかし、「鏡と窓」は、考えようによっては、じつに意味深長なイメージのキーワードとなる。ニューヨーク近代美術館で開催された「鏡と窓」(1977年)という、画期的なコンポラの写真展もあったしね。
べつにむずかしく考えているわけじゃないし、その必要は全然ないけれど、こういう写真がもっている空間の相対性のようなものが、瞬時わたしの意識をゆさぶる。
トップにあげた写真を見ると、ガラス窓の一面一面に、すべて違った「外界」が映し出されている。
この窓の一面一面は、人間の一人ひとりと考えることができる。
同じ平面に存在するはずなのに、高さや方向の微妙な差異が、それぞれの「外界」を映し出す。われわれが“現実”と呼んでいるものが、こういったものの総体だとしたらどうだろう?
こういったイメージをテコにして、わたしの想像はいろいろなところへ拡がっていく。
イメージによる、存在論・・・のようなものを、このような「映り込み写真」によって愉しむことができる。
わたしの眼と感受性は、あの窓の中のどれにあたるのだろう。
男性か女性か、どういった仕事をしているのか、どのくらいのお金持ちか、年齢はどうか、あるいは撮影時の季節、お天気・・・組み合わせはほとんど無限ともいえる。
写真は、そういったエレメントの“関係性”として、成立している。
外界も、わたしも、刻々と変化し、動いている。シャッターを押したその瞬間に、その関係性が、写真として、一枚の平面の上に定着される。
だから、写真が提示するイメージは、ダイナミックであり、スリルに満ちている。
そこを見落としてしまうと、写真のおもしろさは半減してしまうだろう。これらを見返しながら、そんなことを考えた。