
いつものようにBOOK OFF前橋店を散歩していたら、みすず書房版「トリエステの坂道」があったので、ためたわずに買ってきて、ベッドの脇に置いたり、クルマに積んだりしながら持ち歩いている。
「トリエステの坂道」はわたしにとってはとても、とても大切な本の一つ。これまで新潮文庫で読んでいる。
この本には、忘れられない思い出がある。それを日記=blogにざっと書いてウェブに保存してある。読んだ直後、感動のおもむくまま書いているので、自分の文章が生々しく、やや気恥ずかしいが、linkしておこう。
http://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/6613459e3d4fdb5344508c3dcbeed731
「ああ、これこれ。おれがさがしていたのは、これさ!」
もっともらしくいわせてもらうなら、人生にはそういう出会いがときどき起こるものである。
だから、わたしにとっては「トリエステの坂道」は、忘れることができない、大切な一冊なのだ。
わたしには気に入った作品を、くり返し、くり返し読み返すクセがある。
本というのは(写真だってそうかもしれないが)、読み返すたびに、違った印象を与える。
印刷された本の内容は変わらないが、こちらが・・・あるいは時代がたえまなく変化していくからだ。
「トリエステの坂道」とBOOK OFFの店頭で遭遇したのが、2010年1月5日。
「トリエステの坂道」
「電車道」
「ヒヤシンスの記憶」
「雨の中を走る男たち」
「キッチンが変わった日」
「ガードの向こう側」
ほか六編のエッセイが収められている。
いずれも珠玉の・・・といいたい、すばらしい出来栄え!
ピュアなまなざしと、洗練された美しい日本語。
それは彼女の生き方が、時間をかけて生み出した、読者への贈り物である。
須賀さんは限りない愛情をこめて、過去を振り返る。その振り返ることのすばらしさが、どのエッセイにもたっぶりと詰め込まれ、読者をその場に連れ去ってしまう。彼女にみちびかれて「その日、その場所」に立ち会うことになる。
なにもかもが、すべてが失われてしまった。
しかし、須賀さんのこころは、いま(執筆当時)も熱く脈打っている。それを、シルクのような手ざわりをもったすぐれた日本語に移しかえ、再現する。いや、書くこと、その作業のプロセスの向こうから、幻がたち現われる。むろん、彼女にとって、それは幻なんかではない。
過去とは、“いま”のことなのだから。
思い出はアコヤガイの中にうめこまれた真珠のように、彼女のこころの奥底で育まれ、研かれた。
つまらない自慢話ではなく、感傷に溺れるということもないが、彼女の眼がしらには涙の粒が、キラキラと輝いているのを見逃す人はいないだろう。
登場人物はすべて、かつて彼女の隣りか、そのすぐそばで暮らしていた人びと。
そういう人びとを、彼女は記憶の彼方から招集したのだ。
まるで映画の中のワンシーンのように印象的なエピソードの数々とその登場人物が、彼女の美しい、選びぬかれた日本語の中から、クッキリと姿をあらわす。
須賀さんの存在がわたしの写真を、生活を少し変えた。
「老年とはこういう愉しみに満ち溢れているのだな。そうか・・・では、もっと意識的にやってみようではないか」と。
みすず書房版のこの一冊が「トリエステの坂道」のオリジナル。
新潮文庫の装丁も悪くはないけれど、みすず書房版には遠く及ばないことに、あらためて気がついた。
須賀さんは、じつに腕達者な、したたかな表現者である。彼女が「いた場所」に近づくためには、オリジナルにふれたほうがいい。カラヴァッジョの「果物籠」という絵で飾られたオリジナルの装丁・造本に、彼女の体臭のようなものが纏わりついている。
いまなら河出文庫から須賀敦子全集全8巻が刊行されていて、手に入れやすい。
したがって、オリジナルをさがして読んでみるというのは、好事家の嗜みみたいなものなのだろう。
しかし・・・もし、彼女と彼女の世界に惚れこんで、とことん味わうというなら、こちらの方が明らかに上。

<参考>
こちらが新潮文庫版「トリエステの坂道」
「トリエステの坂道」はわたしにとってはとても、とても大切な本の一つ。これまで新潮文庫で読んでいる。
この本には、忘れられない思い出がある。それを日記=blogにざっと書いてウェブに保存してある。読んだ直後、感動のおもむくまま書いているので、自分の文章が生々しく、やや気恥ずかしいが、linkしておこう。
http://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/6613459e3d4fdb5344508c3dcbeed731
「ああ、これこれ。おれがさがしていたのは、これさ!」
もっともらしくいわせてもらうなら、人生にはそういう出会いがときどき起こるものである。
だから、わたしにとっては「トリエステの坂道」は、忘れることができない、大切な一冊なのだ。
わたしには気に入った作品を、くり返し、くり返し読み返すクセがある。
本というのは(写真だってそうかもしれないが)、読み返すたびに、違った印象を与える。
印刷された本の内容は変わらないが、こちらが・・・あるいは時代がたえまなく変化していくからだ。
「トリエステの坂道」とBOOK OFFの店頭で遭遇したのが、2010年1月5日。
「トリエステの坂道」
「電車道」
「ヒヤシンスの記憶」
「雨の中を走る男たち」
「キッチンが変わった日」
「ガードの向こう側」
ほか六編のエッセイが収められている。
いずれも珠玉の・・・といいたい、すばらしい出来栄え!
ピュアなまなざしと、洗練された美しい日本語。
それは彼女の生き方が、時間をかけて生み出した、読者への贈り物である。
須賀さんは限りない愛情をこめて、過去を振り返る。その振り返ることのすばらしさが、どのエッセイにもたっぶりと詰め込まれ、読者をその場に連れ去ってしまう。彼女にみちびかれて「その日、その場所」に立ち会うことになる。
なにもかもが、すべてが失われてしまった。
しかし、須賀さんのこころは、いま(執筆当時)も熱く脈打っている。それを、シルクのような手ざわりをもったすぐれた日本語に移しかえ、再現する。いや、書くこと、その作業のプロセスの向こうから、幻がたち現われる。むろん、彼女にとって、それは幻なんかではない。
過去とは、“いま”のことなのだから。
思い出はアコヤガイの中にうめこまれた真珠のように、彼女のこころの奥底で育まれ、研かれた。
つまらない自慢話ではなく、感傷に溺れるということもないが、彼女の眼がしらには涙の粒が、キラキラと輝いているのを見逃す人はいないだろう。
登場人物はすべて、かつて彼女の隣りか、そのすぐそばで暮らしていた人びと。
そういう人びとを、彼女は記憶の彼方から招集したのだ。
まるで映画の中のワンシーンのように印象的なエピソードの数々とその登場人物が、彼女の美しい、選びぬかれた日本語の中から、クッキリと姿をあらわす。
須賀さんの存在がわたしの写真を、生活を少し変えた。
「老年とはこういう愉しみに満ち溢れているのだな。そうか・・・では、もっと意識的にやってみようではないか」と。
みすず書房版のこの一冊が「トリエステの坂道」のオリジナル。
新潮文庫の装丁も悪くはないけれど、みすず書房版には遠く及ばないことに、あらためて気がついた。
須賀さんは、じつに腕達者な、したたかな表現者である。彼女が「いた場所」に近づくためには、オリジナルにふれたほうがいい。カラヴァッジョの「果物籠」という絵で飾られたオリジナルの装丁・造本に、彼女の体臭のようなものが纏わりついている。
いまなら河出文庫から須賀敦子全集全8巻が刊行されていて、手に入れやすい。
したがって、オリジナルをさがして読んでみるというのは、好事家の嗜みみたいなものなのだろう。
しかし・・・もし、彼女と彼女の世界に惚れこんで、とことん味わうというなら、こちらの方が明らかに上。

<参考>
こちらが新潮文庫版「トリエステの坂道」