(まるで腹を膨らませたフグみたいな石)
たいへんユニークなマンガで知られるつげ義春さんに「無能の人」がある。
多摩川あたりの河原に掘っ立て小屋の店をつくって、そこで、拾ってきた石を売ろうとする男の物語。
金儲けがヘタ。
サラリーマンにも向かず、はて、どうやってこの世を渡っていくか・・・と困窮の涯に思いついた商売であった。
金がなければ妻子を養っていくことができない。
マンガで大当たりをとれば、漫画家として商売が成り立つけれど、それもうまく描けず、追いつめられていく。
「無能の人」は、いまではつげさんの秀作として、多くのファンをよろこばせ、竹中直人監督で映画化までされた(^^)/~~~ つげさんの支持者は、じつは意外なところにいるのである。
ところでわたしは、つげさんと出会うずっと前、少年のころから石・・・自然石に関心があった。
河原へいって、石を物色し、おもしろいものがあると、自宅へ持ちかえる。
そうしてガーデンの端っこにころがしてある石が、20個いや30個以上はあるだろう。
その石でなにかをつくるわけではなく、ときどきしげしげ眺め入って、それで不思議と心安らぐ♪
石は地球のカケラ。
岩石学を志したことはないけれど、地学は大好きな科目で、大学に入ったあとも、教養科目としてゼミを受講したことがあった。
「石の成り立ち」というのが、なんだか壮大な星々のロマンとむすびついている。
(まるで醤油で煮染めた焼きおにぎり)
(子どものいたずら書き? いえいえ、これで自然石)
(ペンキで塗りわけたような二色の石)
(この赤さは、どんな誕生の秘密を隠し持っているのか?)
(こちらは真っ黒い炭のような石)
(これは隕石かな・・・と思えた石)
(これコンクリートのカケラかな・・・と思ったがよくわからない)
(わずかだが硫黄をふくんでいる)
(拾って帰ることにした石を水で洗った)
石が好きといいながら、これまで石を被写体として眺めたことは一度もない。
中学生のころ、鉱物標本を親に買ってもらって、大事にしていたことがある。
現在でも「宝石の図鑑」というのを見つけて、書棚の一等地に置いてある。この場合、宝石というのは、鉱物の一種。
ラピスラズリのブルー! この石に魅入られたことがあったが、いまでもラピスラズリを眺めると、胸がキュンとなる♪
興味がない人にとっては、これほどつまらないものもないだろう。
庭石として活用するわけではないから、いわゆる「銘石」の類ではない。
父を病院に送りとどけたあと、二時間ばかり中途半端な時間が空いた。
この時期この季節、花も鳥も昆虫も、ほとんど見るべきものがない。
「そうか、石を被写体にしてみよう」
と思いついた。そういう目で眺めると、おもしろい石が数限りなくころがっている(=_=)
「そうだな、こうしてつげ義春も、石にはまったのかも知れない」
行き場をなくした人は、足許を見る。
すると「そこ」に、石がころがっている。
幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅行く(若山牧水)
旅行く人とは、そこにいるあなたであり、ここにいるわたしである。牧水は「寂しさ」の普遍性に、到達し得ている。読者はそれに、敏感に反応する。
いまバッハの「イタリア協奏曲」(フリードリッヒ・グルダ)を聴きながら♪
たいへんユニークなマンガで知られるつげ義春さんに「無能の人」がある。
多摩川あたりの河原に掘っ立て小屋の店をつくって、そこで、拾ってきた石を売ろうとする男の物語。
金儲けがヘタ。
サラリーマンにも向かず、はて、どうやってこの世を渡っていくか・・・と困窮の涯に思いついた商売であった。
金がなければ妻子を養っていくことができない。
マンガで大当たりをとれば、漫画家として商売が成り立つけれど、それもうまく描けず、追いつめられていく。
「無能の人」は、いまではつげさんの秀作として、多くのファンをよろこばせ、竹中直人監督で映画化までされた(^^)/~~~ つげさんの支持者は、じつは意外なところにいるのである。
ところでわたしは、つげさんと出会うずっと前、少年のころから石・・・自然石に関心があった。
河原へいって、石を物色し、おもしろいものがあると、自宅へ持ちかえる。
そうしてガーデンの端っこにころがしてある石が、20個いや30個以上はあるだろう。
その石でなにかをつくるわけではなく、ときどきしげしげ眺め入って、それで不思議と心安らぐ♪
石は地球のカケラ。
岩石学を志したことはないけれど、地学は大好きな科目で、大学に入ったあとも、教養科目としてゼミを受講したことがあった。
「石の成り立ち」というのが、なんだか壮大な星々のロマンとむすびついている。
(まるで醤油で煮染めた焼きおにぎり)
(子どものいたずら書き? いえいえ、これで自然石)
(ペンキで塗りわけたような二色の石)
(この赤さは、どんな誕生の秘密を隠し持っているのか?)
(こちらは真っ黒い炭のような石)
(これは隕石かな・・・と思えた石)
(これコンクリートのカケラかな・・・と思ったがよくわからない)
(わずかだが硫黄をふくんでいる)
(拾って帰ることにした石を水で洗った)
石が好きといいながら、これまで石を被写体として眺めたことは一度もない。
中学生のころ、鉱物標本を親に買ってもらって、大事にしていたことがある。
現在でも「宝石の図鑑」というのを見つけて、書棚の一等地に置いてある。この場合、宝石というのは、鉱物の一種。
ラピスラズリのブルー! この石に魅入られたことがあったが、いまでもラピスラズリを眺めると、胸がキュンとなる♪
興味がない人にとっては、これほどつまらないものもないだろう。
庭石として活用するわけではないから、いわゆる「銘石」の類ではない。
父を病院に送りとどけたあと、二時間ばかり中途半端な時間が空いた。
この時期この季節、花も鳥も昆虫も、ほとんど見るべきものがない。
「そうか、石を被写体にしてみよう」
と思いついた。そういう目で眺めると、おもしろい石が数限りなくころがっている(=_=)
「そうだな、こうしてつげ義春も、石にはまったのかも知れない」
行き場をなくした人は、足許を見る。
すると「そこ」に、石がころがっている。
幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅行く(若山牧水)
旅行く人とは、そこにいるあなたであり、ここにいるわたしである。牧水は「寂しさ」の普遍性に、到達し得ている。読者はそれに、敏感に反応する。
いまバッハの「イタリア協奏曲」(フリードリッヒ・グルダ)を聴きながら♪