二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

沈丁花の香り ~「荷風追想」の女性たち(2)

2024年11月19日 | エッセイ(国内)
   (岩波文庫の「雨蕭蕭・雪解」は20代の終わりころ買った、という記憶がある。現在のものは2014年刊。読みたいと思いはじめて、半世紀じゃな。最後まで読んだとして)



今度の読書で心底感心したのは、関根歌の書いたとされる「日蔭の女の五年間」であった。荷風さんより20歳も年下だったこの女性は、もしかしたら、我儘な荷風さんのよき妻(伴侶)となりえた女性だったかもしれない。

《麻布の谷の下あたりから聞こえてくるお琴の音をききながら、先生と一緒に歩いたりしたことは、とくになつかしく思い出されます。先生のお宅へ伺うときは、表玄関から入らないで裏口のばあやさんのところから入ります。お部屋はというと、一階に四畳ほどの日本間がお風呂のそばにあるだけで、あとは全部洋間でした。
二階の書斎には本がぎっしり並んでおりましたが、その中でもとくに鷗外先生の全集が一番目のつくところに飾られているのを、印象ぶかくおぼえております。
応接間は下にありましたが、なにか閑散としていて、人間のいない住居のような感じでした。春になると、門から玄関のところまで植えられた沈丁花のすばらしい香りがなんともいえず、お宅から二、三丁さきからぷうんと匂ってくるほどでした。なつかしい麻布のお宅でした。》134ページ

関根歌は荷風が春画が好きで知り合いの客の要望があれば自宅まで飛んで帰って見せたこと、のぞきも趣味があったようで、関根歌にほかの男との“浮気”のありさまを訊きたがったり、押し入れの扉に穴をあけて、男女の情交を見たがったりしたという。
「四畳半襖の下張り」に通じる世界であろう。
“沈丁花のすばらしい香り”と好色本は、背馳しないようである。

《先生はお一人でさぞお淋しかったことだろうとおもいます。いつも孤独でいいと口に出しておられましたけれど、ほんとうは淋しがりやだったのです。いつもにぎやかなことのお好きだった先生だけに、索居独棲(さっきょどくせい)のたのしみをいわれたのは、江戸っ子らしい、負けずぎらい気分からそう申されたのでしょう。けれど私は涙なくして先生のことを想い出せないのでございます。
テレビで亡骸を見たときの、あのチーズクラッカーを思い浮かべますと、涙がとめどなくこみ上げてまいります。
先生、ご冥福をお祈り申し上げます。》138ページ(「婦人公論」1959年7月号 改行は引用者)

これを読んだとき、そうか、荷風は「チーズクラッカー」が好きだったのだ。文化勲章受賞者の老人が、おやつ代わりにクラッカーを食べていた情景がぼんやり浮かんでくる。歌が買ってきて、置いていったりしたこともあったのだろう。死の床に、そのカケラが零れていたことを、彼女は見逃していない。

「交情蜜の如し」は、40代のころかすかに読んだ憶えがないではないが、「日蔭の女の五年間」と、阿部寿々子の「荷風先生はやさしい人だった」ははじめて読む。
いかにも女らしい、こまかい具体例を取りあげて、書いたというより、話した・しゃべったのだろう。
谷崎潤一郎や正宗白鳥、久保田万太郎、堀口大学といった文学の“弟子”が書いたものより、感情の要諦が痛いほどに胸にしみる。



■藤陰静枝(または藤陰静樹 ふじかげ・せいじゅ 1880~1966年 86歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E8%94%AD%E9%9D%99%E6%A8%B9

■関根 歌(1907~1975年 68歳)
「東京さまよい記」
https://blog.goo.ne.jp/asaichibei/e/698efa65edfa0b79bc02fc73517aecea

荷風は“女好き”で、「断腸亭日乗」にたしか16人ともいう女性と情交したことを書いていたはずだが、その中で一番長続きしたのが、関根歌。彼女は別れたあと、戦後にも少なくとも3回は荷風のもとを訪れているようだ。

  
   (若き日の荷風とお歌。画像検索よりお借りしています)

■阿部寿々子(生没年未詳)

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