予想した以上に濃密な内容を持った、すぐれた一冊である。
刊行は1967年とかなり古いが、古代ローマに関心のある方なら、読み逃すべきではないだろう。
中公新書は“歴史もの”に定評がある・・・ということを、以前にも書いた。
ネロは日本では「暴君といえばネロ」といわれつづけてきた。その評判通りそれほどの巨悪なのかどうか、それを検証したくて読みはじめた。
本書はよく調べて書いた、ネロの評伝といっていい。誕生から三十そこそこで側近に殺害されるまでがコンパクトにまとめられ、学者臭のあまりしないおもしろい本に仕上がっている。
本書はAmazonにBOOKデータベースがないため、表紙裏に付された紹介文を転写してみよう。
《「かつて母親が生みおとした最も悪しき男」と言われる一方、ローマ随一の名君と讃えられるネロほど、歴史上評価の定まらぬ奇怪な人物はいない。
哲人セネカの教育をうけ、芸術家を夢み、革新の意欲に燃えたネロが、いかにして母殺し、妻殺し、キリスト教迫害等の悪業を犯すまでに追い込まれていくか̶長年ローマ史に親しんできた著者が、ローマ帝国の権力構造の中に独特のネロ像を浮彫し、歴史と人間の関わり合いの悲劇性を鋭く突く。》
人殺しは専制君主のいわば“仕事”である。戦争なら、10万人殺そうが、100万人殺そうが、原則的には罪にはならない。ローマ史で最大の人殺しはカエサルだろうが、彼はアレキサンダーと同じく英雄と讃えられている。
自分で直接手を下した実行犯ではないということだろうか?
戦争なら、敵を粉砕することが、そのまま殺人にむすびつく。ネロの場合はそうではなくて、母を、妻を、養育者(セネカ)を殺したから、極悪人とされている。
そしてキリスト教徒の迫害をおこなったことが、悪名の総仕上げ。後年キリスト教が全ヨーロッパに広がることなど、ネロには想像できなかったであろう。大いなる歴史の皮肉とはこのことである。
しかも最後には側近によって殺害される。こうなると、ネロに同情の余地はなくなる(゚ω、゚) 暴君の末路・・・その典型的な例として、ネロという皇帝の生涯がひきあいに出される。
しかし、本当に救いがたい存在なのか?
秀村さんは、本書執筆の動機を、つぎのように述べておられる。
《私がここで指摘したいのは、英雄と暴君の差は、ときとして紙ひとえにしかすぎないのではないかということです。ここで想起される古代の英雄にアレキサンダーがある。若くして哲人アリストテレスの教育をうけ、ホメロスやギリシア悲劇を愛好したこと、母オリンピアスは政治的野心に燃えた婦人だったこと、多血質情熱がマイナスに作用するとき、功臣・親友を殺す惨劇を招いていること、そしてともに三十歳をこえることわずかで亡くなったことなど意外にもネロとの類似点は少なくない。しかもアレキサンダーは大王とたたえられ、ネロは暴君と憎まれるのはなぜか。》(エピローグより 185ページ)
本書ではこの暴君ネロの実像に迫っている。
治世はじめの5年間は、いまでも讃える人が多いが、その君主がなぜ、どんなふうに暴君になり果てていくのかを論証していく。なかなか手堅い記述ぶりで、説得力がある。
1967年という時期に、右にも左にも偏らずこんなふうに客観的に論述できたことは、著者の知性の賜物である。
その後、ネロの評伝に類するものはいくつか書かれているだろうが、「参考文献」をふくめ190ページにコンパクトのまとめた功績は、現在でも評価していいだろう。
ネロのあとにつづくろくでもない二流、三流の皇帝たちの所業をみるにつけ、秀村さんと同じように「英雄と暴君の差は、ときとして紙ひとえにしかすぎないのではないか」という思いにとらわれざるを得ない。
権力は人間を狂わせる。
ネロは“圧倒的な”権力を握ったことに気がついたときから踏み外したのである。常軌を逸する所業がまかり通ることになって、周辺の人びとから見放される。担ぐ官僚やら民衆やらが存在するからこその皇帝なのだが・・・。
ネロの悲劇は、その後、独裁者をいただく国家で、しばしばくり返されることになる。
本書は「権力というものの研究の書」として通用する、卓越した視点を持っている。
現在、ツワイクの「ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像」(岩波文庫)を読みはじめているが、こちらの著作に引き寄せていえば、皇帝でありながら、政治的人間にはなれなかったところに、皇帝ネロの大いなる悲劇があったと思われる。
評価:☆☆☆☆
刊行は1967年とかなり古いが、古代ローマに関心のある方なら、読み逃すべきではないだろう。
中公新書は“歴史もの”に定評がある・・・ということを、以前にも書いた。
ネロは日本では「暴君といえばネロ」といわれつづけてきた。その評判通りそれほどの巨悪なのかどうか、それを検証したくて読みはじめた。
本書はよく調べて書いた、ネロの評伝といっていい。誕生から三十そこそこで側近に殺害されるまでがコンパクトにまとめられ、学者臭のあまりしないおもしろい本に仕上がっている。
本書はAmazonにBOOKデータベースがないため、表紙裏に付された紹介文を転写してみよう。
《「かつて母親が生みおとした最も悪しき男」と言われる一方、ローマ随一の名君と讃えられるネロほど、歴史上評価の定まらぬ奇怪な人物はいない。
哲人セネカの教育をうけ、芸術家を夢み、革新の意欲に燃えたネロが、いかにして母殺し、妻殺し、キリスト教迫害等の悪業を犯すまでに追い込まれていくか̶長年ローマ史に親しんできた著者が、ローマ帝国の権力構造の中に独特のネロ像を浮彫し、歴史と人間の関わり合いの悲劇性を鋭く突く。》
人殺しは専制君主のいわば“仕事”である。戦争なら、10万人殺そうが、100万人殺そうが、原則的には罪にはならない。ローマ史で最大の人殺しはカエサルだろうが、彼はアレキサンダーと同じく英雄と讃えられている。
自分で直接手を下した実行犯ではないということだろうか?
戦争なら、敵を粉砕することが、そのまま殺人にむすびつく。ネロの場合はそうではなくて、母を、妻を、養育者(セネカ)を殺したから、極悪人とされている。
そしてキリスト教徒の迫害をおこなったことが、悪名の総仕上げ。後年キリスト教が全ヨーロッパに広がることなど、ネロには想像できなかったであろう。大いなる歴史の皮肉とはこのことである。
しかも最後には側近によって殺害される。こうなると、ネロに同情の余地はなくなる(゚ω、゚) 暴君の末路・・・その典型的な例として、ネロという皇帝の生涯がひきあいに出される。
しかし、本当に救いがたい存在なのか?
秀村さんは、本書執筆の動機を、つぎのように述べておられる。
《私がここで指摘したいのは、英雄と暴君の差は、ときとして紙ひとえにしかすぎないのではないかということです。ここで想起される古代の英雄にアレキサンダーがある。若くして哲人アリストテレスの教育をうけ、ホメロスやギリシア悲劇を愛好したこと、母オリンピアスは政治的野心に燃えた婦人だったこと、多血質情熱がマイナスに作用するとき、功臣・親友を殺す惨劇を招いていること、そしてともに三十歳をこえることわずかで亡くなったことなど意外にもネロとの類似点は少なくない。しかもアレキサンダーは大王とたたえられ、ネロは暴君と憎まれるのはなぜか。》(エピローグより 185ページ)
本書ではこの暴君ネロの実像に迫っている。
治世はじめの5年間は、いまでも讃える人が多いが、その君主がなぜ、どんなふうに暴君になり果てていくのかを論証していく。なかなか手堅い記述ぶりで、説得力がある。
1967年という時期に、右にも左にも偏らずこんなふうに客観的に論述できたことは、著者の知性の賜物である。
その後、ネロの評伝に類するものはいくつか書かれているだろうが、「参考文献」をふくめ190ページにコンパクトのまとめた功績は、現在でも評価していいだろう。
ネロのあとにつづくろくでもない二流、三流の皇帝たちの所業をみるにつけ、秀村さんと同じように「英雄と暴君の差は、ときとして紙ひとえにしかすぎないのではないか」という思いにとらわれざるを得ない。
権力は人間を狂わせる。
ネロは“圧倒的な”権力を握ったことに気がついたときから踏み外したのである。常軌を逸する所業がまかり通ることになって、周辺の人びとから見放される。担ぐ官僚やら民衆やらが存在するからこその皇帝なのだが・・・。
ネロの悲劇は、その後、独裁者をいただく国家で、しばしばくり返されることになる。
本書は「権力というものの研究の書」として通用する、卓越した視点を持っている。
現在、ツワイクの「ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像」(岩波文庫)を読みはじめているが、こちらの著作に引き寄せていえば、皇帝でありながら、政治的人間にはなれなかったところに、皇帝ネロの大いなる悲劇があったと思われる。
評価:☆☆☆☆