■ロス・マクドナルド「動く標的」田口俊樹訳(創元推理文庫 2018年新訳)
シーンからシーンへ、じつに丹念に登場人物をトレースしている。語り手は言わずと知れたリュー・アーチャー、私立探偵である。この主人公の“眼”が、ほかの男や女に、見てくれに惑わされず、一定の距離をたもって非情に寄り添ってゆく。読者の先導役として、これ以上望むべくもない丁寧な語り手である。
まるで映画のような瞼に映える場面や、鍵になりそうなことばを要所要所で覚えていたくて、ポストイットを大量にはさんだため、結果として本が水膨れ(ポストイット膨れ)している。こうなると古本屋さんやBOOK OFFには引き取ってもらえない( -ω-)
わたしの認識にあやまりがないとすれば、3日間の出来事である。その間に4人、5人の死体が横たわる。
ハメットの「血の収穫」をしのぐほどの、血と死にまみれた恐るべき小説といえなくはない。
アーチャーのほか生き残るのは、マドンナ役のミランダ・サンプソンだけ。そのほかに作中で犯罪をおかすアルバート・グレイヴズという元検事・弁護士の男がいる。
バイオレンス・シーンの語りにも、細かく神経が張り巡らされていて、読み応え十分。
以前は井上一夫さんによる訳だったのかな?
本書はミステリに定評ある田口俊樹さんによる新訳で、あきらかにブラッシュアップされている。
《石油王が失踪した。失踪か? 誘拐か? 夫人の依頼により調査を開始した私立探偵リュー・アーチャー。夫人とは犬猿の仲である義理の娘、彼女が愛する一家専属のバイロット、娘との結婚を望む弁護士といった面々が複雑に絡み合うなか、次々に殺人事件が……。クールな探偵リュー・アーチャーが初登場した、正統派ハードボイルド作家ロス・マクドナルドの傑作を、これ以上望むべくもないベテラン訳者による新訳で贈る。》BOOKデータベースより
第22章のアクションシーンは、これまで読んだどのアクションシーンよりすぐれている。
英語原文が読めないから推測するしかないが、こんなに鮮烈なすばらしい物語に生まれ変わったのは、田口さんのお手柄といえそうである(一二か所首をひねったところもあったが)。
少々長くなってしまうが、こちらを引用してみる。
《「店長はどこに?」
「カウンターの中にいるのがうちの店長、チコよ」
テーブル客のひとりがグラスでテーブルを叩いてウェイトレスを呼んだ。彼女はまた慎重な歩き方でその客のほうに向かった。わたしはバーのほうに行った。
チコは、後退している髪の生えぎわからたるんだ顎まで、恐ろしく細長い顔の男だった。客がまばらでも店を開けていなければならないせいで、よけい長くなってしまったような顔だった。
「何にします?」
「ビールを」
顎がさらにたるんだみたいに見えた。「東部の? それとも西部の?」
「東部の」
「三十五セント。音楽付きで」たるんだ顎が少し戻った。「うちは音楽が売りなんです」
「サンドイッチはできるかな?」
「もちろん」と彼はほとんど嬉しそうにいった。「何をはさみます?」
「ベーコンと卵」
「了解」彼は開かれたドア越しにウェイトレスに合図した。》(202ページ)
交わされる会話の半分は皮肉またはあてこすり。そこに、ハードボイルドならではのブラックなユーモアが鏤められる。
「ウチャリー家の女」「さむけ」が最高作と称揚する読者や批評家が多いが、これがリュー・アーチャーものの第一作なのだから恐れ入る(゚Д゚;)
「動く標的」のみならず、ハメットやチャンドラーに比べて多作だったロス・マクドナルドには、このレベルの秀作が、きっといくつもあるはず。
二転三転するストーリー、お得意の暗喩や直喩が頻出する、緊密な文体。文学(普通の意味の)に限りなくせまっている。
簡単に人が殺されすぎるのが、いかにもミステリではあるが。
人間に対し、性善説、性悪説があるとすると、ロス・マクドナルドはあきらかに性悪説に立っている。これはハメット以来のハードボイルドの原則といえるだろう。
この作品が書かれたとき、リュー・アーチャーは35歳なのだ。たった3日間に、3回殴り倒され、彼は気を失う。そしてまた、すぐに立ち直るタフな男。バツイチで、子はいないことになっている。
自分の探偵という仕事に驚くほど忠実である。酒は好物なので、理解しにくい奇妙な女や、敵か味方かわからない男と年中ウィスキーやビールを飲んでいる。
「酒と女と金か、こいつらは。だから仕事人間アーチャーが輝いて見えるんだぜ。」
何か所か強引な筋の運びにあきれたところがあったものの、読み了えたあと、深いふかいため息をつかざるを得なかった。いかにも・・・、いかにもハードボイルドですよ。
傑作とまではいえないが、十分秀作の名に値する一冊である。
(ロス・マクドナルド。画像検索からお借りしています、ありがとうございました)
(「暗いトンネル」菊池光訳 創元推理文庫。「動く標的」がアーチャーものの第一作だとすると、こちらは文壇デビュー作。ただし読みたかったら古書を探すしかない)
評価:☆☆☆☆☆
シーンからシーンへ、じつに丹念に登場人物をトレースしている。語り手は言わずと知れたリュー・アーチャー、私立探偵である。この主人公の“眼”が、ほかの男や女に、見てくれに惑わされず、一定の距離をたもって非情に寄り添ってゆく。読者の先導役として、これ以上望むべくもない丁寧な語り手である。
まるで映画のような瞼に映える場面や、鍵になりそうなことばを要所要所で覚えていたくて、ポストイットを大量にはさんだため、結果として本が水膨れ(ポストイット膨れ)している。こうなると古本屋さんやBOOK OFFには引き取ってもらえない( -ω-)
わたしの認識にあやまりがないとすれば、3日間の出来事である。その間に4人、5人の死体が横たわる。
ハメットの「血の収穫」をしのぐほどの、血と死にまみれた恐るべき小説といえなくはない。
アーチャーのほか生き残るのは、マドンナ役のミランダ・サンプソンだけ。そのほかに作中で犯罪をおかすアルバート・グレイヴズという元検事・弁護士の男がいる。
バイオレンス・シーンの語りにも、細かく神経が張り巡らされていて、読み応え十分。
以前は井上一夫さんによる訳だったのかな?
本書はミステリに定評ある田口俊樹さんによる新訳で、あきらかにブラッシュアップされている。
《石油王が失踪した。失踪か? 誘拐か? 夫人の依頼により調査を開始した私立探偵リュー・アーチャー。夫人とは犬猿の仲である義理の娘、彼女が愛する一家専属のバイロット、娘との結婚を望む弁護士といった面々が複雑に絡み合うなか、次々に殺人事件が……。クールな探偵リュー・アーチャーが初登場した、正統派ハードボイルド作家ロス・マクドナルドの傑作を、これ以上望むべくもないベテラン訳者による新訳で贈る。》BOOKデータベースより
第22章のアクションシーンは、これまで読んだどのアクションシーンよりすぐれている。
英語原文が読めないから推測するしかないが、こんなに鮮烈なすばらしい物語に生まれ変わったのは、田口さんのお手柄といえそうである(一二か所首をひねったところもあったが)。
少々長くなってしまうが、こちらを引用してみる。
《「店長はどこに?」
「カウンターの中にいるのがうちの店長、チコよ」
テーブル客のひとりがグラスでテーブルを叩いてウェイトレスを呼んだ。彼女はまた慎重な歩き方でその客のほうに向かった。わたしはバーのほうに行った。
チコは、後退している髪の生えぎわからたるんだ顎まで、恐ろしく細長い顔の男だった。客がまばらでも店を開けていなければならないせいで、よけい長くなってしまったような顔だった。
「何にします?」
「ビールを」
顎がさらにたるんだみたいに見えた。「東部の? それとも西部の?」
「東部の」
「三十五セント。音楽付きで」たるんだ顎が少し戻った。「うちは音楽が売りなんです」
「サンドイッチはできるかな?」
「もちろん」と彼はほとんど嬉しそうにいった。「何をはさみます?」
「ベーコンと卵」
「了解」彼は開かれたドア越しにウェイトレスに合図した。》(202ページ)
交わされる会話の半分は皮肉またはあてこすり。そこに、ハードボイルドならではのブラックなユーモアが鏤められる。
「ウチャリー家の女」「さむけ」が最高作と称揚する読者や批評家が多いが、これがリュー・アーチャーものの第一作なのだから恐れ入る(゚Д゚;)
「動く標的」のみならず、ハメットやチャンドラーに比べて多作だったロス・マクドナルドには、このレベルの秀作が、きっといくつもあるはず。
二転三転するストーリー、お得意の暗喩や直喩が頻出する、緊密な文体。文学(普通の意味の)に限りなくせまっている。
簡単に人が殺されすぎるのが、いかにもミステリではあるが。
人間に対し、性善説、性悪説があるとすると、ロス・マクドナルドはあきらかに性悪説に立っている。これはハメット以来のハードボイルドの原則といえるだろう。
この作品が書かれたとき、リュー・アーチャーは35歳なのだ。たった3日間に、3回殴り倒され、彼は気を失う。そしてまた、すぐに立ち直るタフな男。バツイチで、子はいないことになっている。
自分の探偵という仕事に驚くほど忠実である。酒は好物なので、理解しにくい奇妙な女や、敵か味方かわからない男と年中ウィスキーやビールを飲んでいる。
「酒と女と金か、こいつらは。だから仕事人間アーチャーが輝いて見えるんだぜ。」
何か所か強引な筋の運びにあきれたところがあったものの、読み了えたあと、深いふかいため息をつかざるを得なかった。いかにも・・・、いかにもハードボイルドですよ。
傑作とまではいえないが、十分秀作の名に値する一冊である。
(ロス・マクドナルド。画像検索からお借りしています、ありがとうございました)
(「暗いトンネル」菊池光訳 創元推理文庫。「動く標的」がアーチャーものの第一作だとすると、こちらは文壇デビュー作。ただし読みたかったら古書を探すしかない)
評価:☆☆☆☆☆