5月31日の午後、出張で東京へ出かけるため高崎駅にいたら、駅のコンコースで、
盲目のピアニスト、辻井伸行さんを見かけた。
わたしは待ち合わせのために、チケット売り場に立っていたのだ。
白い盲人用の杖をもった若い男性が、他の通行人にまじって、左方向からゆっくりと近づいてきた。
「おや、どこかで見た顔だな」
隣に、しゃれたブレザーを着込んだ40歳くらいの男性をしたがえている。
やや顔を上にむけて、白い杖を体のまえにかまえ、わたしのすぐ目の前を通り過ぎていった。
「あ、あれは・・・!」
いままさに通過しようとする瞬間、それがTVなどで顔を見知っているピアニストの辻井さんだと気がついた。
切符売り場付近でのできごとだから、
乗り換えのために歩いていたのではない。
あとからネットで情報検索してみたけれど、ついにそれらしいコンサート・スケジュールは発見できなかった。
彼のお得意のポーズというのだろうか、昂然とかしらを上げて、杖を体から20cmほど前に掲げるように持ち、人混みのなかをすすんでいった。
「やっぱり、際だった存在だな」
キチョウやモンシロやスジグロシロチョウやナミアゲハの群れのなかを、
あのブーメラン型の美しい翅をもったアオスジアゲハがたった一頭、す~と横切っていった・・・そんな印象だった。
ところで、作曲家シューベルトを、はじめて意識したのは、アルフレッド・ブレンデルが弾く「さすらい人幻想曲」だった。
それまでは、未完成交響曲、それから、ごくポピュラーないくつかの歌曲で知っていた程度。
いまから20年ばかり昔の出来事である(-_-)
そのころは、吉田秀和さんの本を読んでいたから、そこで「さすらい人幻想曲」を知ったのではないか? そして即興曲。楽興の時、「ピアノ五重奏曲イ長調 D.667(ます)」「弦楽四重奏曲 第14番ニ短調(死と乙女)」にのめりこんでいった。
昨夜は、あの「ザ・グレイト」を2回、たて続けに聴いて、わたしは深い感動につつまれ、いろんなことを・・・じつにいろんなことを思い出した。
わたしの愛聴盤はこれ。
■交響曲第9番ハ長調 D944 「ザ・グレイト」
ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団
(レコーディング:1957.November.)
シューベルトは、このすばらしいシンフォニーが演奏されるのを聴くことなく、死んでいった。「むずかしすぎる」「長くかつ重い」そんなクレームをうけて、シューベルトの死後、兄のもとでお蔵入り。
それから10年。このシンフォニーを発見し、世に出したのは、シューマンであった。
シューベルトの遺作の数々を見せられたシューマンは、「歓喜のあまり身震いがした」と書いているそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
シューマンのすすめにしたがって、この大曲をはじめて指揮したのは、メンデルスゾーン。
わたしのCDの解説には、シューマンのつぎようなことばが収録されている。
「この交響曲には単に美しい歌とか、音楽がこれまで何百回と表現してきた単なる苦悩や喜びといったもの以上のものが秘められており、この交響曲は、我々がかつてそこにいたことをどうしても想い出せないような世界へ、我々をつれていく」
さすが、シューマンは、すばらしい表現をしている。
『この交響曲は、我々がかつてそこにいたことをどうしても想い出せないような世界へ、我々をつれていく』
すぐれた音楽があたえる感動を、これほど的確にいいあてたことばを、わたしはほかにあまり知らない。
堂々としたベートーヴェンのような曲想の構築性。
洪水のごとく、つぎつぎと現われては消える、抒情的で甘美なメロディー。
悲しみのあとには、喜びが、喜びのあとには、また少し違った悲しみが。
管楽器や打楽器が、なんと効果的に響いていることだろう。
弦楽器たちは、深く暗い海のようにうねっている。
自分のピアノを買うことすらできないような極貧のなかでも、輝きを失うことがなかったシューベルトの魂のうめき。
「いいんだよ、それで。ほかに、きみになにができたろう」
「さあ、またなにかがはじまる。いや、はじめようではないか」
「諦めるのは、まだはやい。希望をうしなったとき、ほんとうに、希望は失われるんだよ」
「ほら、ぼくはいつだって、ここにいる。この音楽のなかに。・・・ぼくに逢いたくなったら、この音楽のなかにきたまえ。きみにとって、ほんとうに大事な人はだれ?」
シューベルトは語りかける。
わたしにとっては、このシンフォニーもまた「筆舌に尽くしがたい」音楽である。
センチメンタルな気分にひたされているわけではないのに、涙が止まらない。
この音楽を、こんなに長い間聴かずにきたなんて・・・。
わたしは、途方もない回り道をしてしまったのだろうか?
■ミズイロオナガシジミとアオスジアゲハ


(写真は本文とは関係がありません)
盲目のピアニスト、辻井伸行さんを見かけた。
わたしは待ち合わせのために、チケット売り場に立っていたのだ。
白い盲人用の杖をもった若い男性が、他の通行人にまじって、左方向からゆっくりと近づいてきた。
「おや、どこかで見た顔だな」
隣に、しゃれたブレザーを着込んだ40歳くらいの男性をしたがえている。
やや顔を上にむけて、白い杖を体のまえにかまえ、わたしのすぐ目の前を通り過ぎていった。
「あ、あれは・・・!」
いままさに通過しようとする瞬間、それがTVなどで顔を見知っているピアニストの辻井さんだと気がついた。
切符売り場付近でのできごとだから、
乗り換えのために歩いていたのではない。
あとからネットで情報検索してみたけれど、ついにそれらしいコンサート・スケジュールは発見できなかった。
彼のお得意のポーズというのだろうか、昂然とかしらを上げて、杖を体から20cmほど前に掲げるように持ち、人混みのなかをすすんでいった。
「やっぱり、際だった存在だな」
キチョウやモンシロやスジグロシロチョウやナミアゲハの群れのなかを、
あのブーメラン型の美しい翅をもったアオスジアゲハがたった一頭、す~と横切っていった・・・そんな印象だった。
ところで、作曲家シューベルトを、はじめて意識したのは、アルフレッド・ブレンデルが弾く「さすらい人幻想曲」だった。
それまでは、未完成交響曲、それから、ごくポピュラーないくつかの歌曲で知っていた程度。
いまから20年ばかり昔の出来事である(-_-)
そのころは、吉田秀和さんの本を読んでいたから、そこで「さすらい人幻想曲」を知ったのではないか? そして即興曲。楽興の時、「ピアノ五重奏曲イ長調 D.667(ます)」「弦楽四重奏曲 第14番ニ短調(死と乙女)」にのめりこんでいった。
昨夜は、あの「ザ・グレイト」を2回、たて続けに聴いて、わたしは深い感動につつまれ、いろんなことを・・・じつにいろんなことを思い出した。
わたしの愛聴盤はこれ。
■交響曲第9番ハ長調 D944 「ザ・グレイト」
ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団
(レコーディング:1957.November.)
シューベルトは、このすばらしいシンフォニーが演奏されるのを聴くことなく、死んでいった。「むずかしすぎる」「長くかつ重い」そんなクレームをうけて、シューベルトの死後、兄のもとでお蔵入り。
それから10年。このシンフォニーを発見し、世に出したのは、シューマンであった。
シューベルトの遺作の数々を見せられたシューマンは、「歓喜のあまり身震いがした」と書いているそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
シューマンのすすめにしたがって、この大曲をはじめて指揮したのは、メンデルスゾーン。
わたしのCDの解説には、シューマンのつぎようなことばが収録されている。
「この交響曲には単に美しい歌とか、音楽がこれまで何百回と表現してきた単なる苦悩や喜びといったもの以上のものが秘められており、この交響曲は、我々がかつてそこにいたことをどうしても想い出せないような世界へ、我々をつれていく」
さすが、シューマンは、すばらしい表現をしている。
『この交響曲は、我々がかつてそこにいたことをどうしても想い出せないような世界へ、我々をつれていく』
すぐれた音楽があたえる感動を、これほど的確にいいあてたことばを、わたしはほかにあまり知らない。
堂々としたベートーヴェンのような曲想の構築性。
洪水のごとく、つぎつぎと現われては消える、抒情的で甘美なメロディー。
悲しみのあとには、喜びが、喜びのあとには、また少し違った悲しみが。
管楽器や打楽器が、なんと効果的に響いていることだろう。
弦楽器たちは、深く暗い海のようにうねっている。
自分のピアノを買うことすらできないような極貧のなかでも、輝きを失うことがなかったシューベルトの魂のうめき。
「いいんだよ、それで。ほかに、きみになにができたろう」
「さあ、またなにかがはじまる。いや、はじめようではないか」
「諦めるのは、まだはやい。希望をうしなったとき、ほんとうに、希望は失われるんだよ」
「ほら、ぼくはいつだって、ここにいる。この音楽のなかに。・・・ぼくに逢いたくなったら、この音楽のなかにきたまえ。きみにとって、ほんとうに大事な人はだれ?」
シューベルトは語りかける。
わたしにとっては、このシンフォニーもまた「筆舌に尽くしがたい」音楽である。
センチメンタルな気分にひたされているわけではないのに、涙が止まらない。
この音楽を、こんなに長い間聴かずにきたなんて・・・。
わたしは、途方もない回り道をしてしまったのだろうか?
■ミズイロオナガシジミとアオスジアゲハ


(写真は本文とは関係がありません)