旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

興福寺

2010年02月04日 | 旅 歴史
 奈良県奈良市登大路町にある興福寺です。
 興福寺は南都6宗の一つ、法相宗の大本山です。藤原氏の氏寺として藤原氏の隆盛とともに寺勢を拡大し、奈良時代には南都4大寺、平安時代には南都7大寺の1つとして栄えました。
 天智天皇8年(669)、藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために、夫人の鏡女王が、京都山科の私邸に建てた「山科寺」を始まりとしています。
 その後飛鳥廐坂の地に寺を移し「廐坂寺」と称しました。都が平城京へ移されると、この地に移し「興福寺」と名付けたそうです。創建の年は和銅3年(710)となっています。
 その後皇室や藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられて整備されました。摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますます栄え、平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになったそうです。勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称されたそうです。
 鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たったそうです。しかし、戦国時代に入ってから徐々にその勢いは衰え、江戸時代には21000石余の朱印が与えられた程度でした。享保2年(1717)の火災で西金堂、講堂、南大門など焼失しましたが再建されませんでした。
 明治元年(1868)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行なわれていた興福寺は大打撃を被りました。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職にされました。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だったそうです。
 かつての興福寺には中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていました。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていたそうです。


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