旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

妙心寺

2020年06月14日 | 旅 歴史

 京都府京都市右京区花園妙心寺町に妙心寺があります。
 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の総本山です。康永元年(1342)、花園天皇の離宮を禅寺に改めて創建されました。16万平方mの広大な寺域に、七堂伽藍を中心に46の塔頭寺院が立ち並んでいます。総門から一直線に山門、仏殿、法堂、寝殿、方丈、庫裏の大伽藍が並ぶ七堂伽藍です。

 開山は大徳寺の開山大燈(だいとう)国師の法嗣(ほうし)である関山慧玄(かんざんえげん)を招聘しました。開山無相大師ともいわれた慧玄は清楚闊達(かったつ)の名僧で形式的な読経や規則にとらわれず簡素なる禅風をうちたて人材の育成に努めました。

 五山の禅寺が詩文に重きをおいていましたが、五山十刹にも加えられなかった妙心寺は林下として、禅の正統を守り応燈関(大応図師・大燈国師・関山)の法系を維持しました。大師入定後も逸材傑僧を輩出しました。3世無因宗因のとき大いに繁栄しました。

 妙心寺6世の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は応永の乱を起こした大内義弘と関係が深かったため、応永6年(1399)、3代将軍足利義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身とされました。

 義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めました。こうして妙心寺は一時中絶したのです。廷用は永享4年(1432)、微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地を、その頃南禅寺にいた根外宗利に与えました。

 関山慧玄の流れを重んじていた根外は、犬山瑞泉寺から日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を迎えて妙心寺を復興させました。応仁の乱(1467-1477)で多くの堂塔が焼失しました。文明9年(1477)に後土御門天皇による「妙心寺再興の綸旨」が下されました。

 そして、雪江宗深(せっこうそうしん)や、彼に帰依した細川勝元・政元親子らの助力により復興しました。永正6年(1509)には利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進しています。大内・細川・今川・織田・武田・豊臣氏などからも援助を受け大寺院となっていきました。

 大宰府の観世音寺と兄弟鐘になる国宝の梵鐘(法堂内)、大灯国師墨跡(国宝)をはじめ、仏像、絵画、障壁画、庭園など多くの文化財を所蔵しています。仏殿、法堂、山門、浴室、経蔵、勅使門、南門、北門、 大方丈、玄関、寝堂、小方丈、庫裏などが国の重要文化財に指定されています。

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