旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

金閣寺庭園

2018年02月14日 | 旅 歴史
京都市北区金閣寺町に金閣寺(鹿苑寺)があります。
 金閣寺の庭園は鹿苑寺(金閣寺)庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定されています。鏡湖池には大小の島々、奇岩名石が配されています。北方の山々西の衣笠山などを借景としたこの庭園は、室町期の代表的な傑作です。 

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金閣寺舎利殿

2018年02月13日 | 旅 歴史
京都市北区金閣寺町に金閣寺(鹿苑寺)があります。
 舎利殿(金閣)は昭和30年(1955)に再建された建物です。放火による焼失後、政府、京都府、経済界や全国各地からの寄付金で約3千万円(当時)が集められました。明治37年(1904)から明治39年(1906)に行われた解体修理の図面が残されていたため忠実に再現されました。
 一層は寝殿造り、二層は武家造り、三層は中国風の禅宗仏殿造りです。二層と三層は漆の上から純金の箔が張ってあります。10cmの金箔が10万枚(2kg)使用され、その後の修復で20万枚(20kg)も使われたそうです。こけら葺きの屋根の上には鳳凰が輝いています。  
 昭和61年(1986)から翌年にかけ「金閣の昭和大修復」が行われ、平成17年(2005)から2年かけ方丈の解体修理も行われています。平成6年(1994)には世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されています。

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金閣寺(鹿苑寺)

2018年02月12日 | 旅 歴史
京都市北区金閣寺町に金閣寺(鹿苑寺)があります。
 金閣寺は鹿苑寺(ろくおんじ)という臨済宗相国寺派の禅寺です。銀閣寺とともに室町幕府3代将軍足利義満により創建された相国寺の塔頭寺院でもあります。お釈迦様のお骨を祀った舎利殿(金閣)が金箔で造られていたので、金閣寺とよばれています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したといわれます。中国貿易を盛んにして文化の発展を遂げた北山文化の中心地でした。
 ここ笠山一帯は背後に北山をひかえ、平安時代から貴族の行楽の地となっていました。鎌倉時代に前太政大臣の藤原公経(西園寺公経)は北山第という山荘を建てていました。元仁元年(1224)に公経は持仏堂を西園寺として、西園寺と姓も改めました。
 鎌倉幕府滅亡時に後裔の西園寺公宗が後醍醐天皇謀殺を計り、処刑され衰亡します。室町3代将軍足利義満はここを気に入り、将軍職を義持に譲って太政大臣になると、応永4年(1397)、この地を譲り受け、新たに北山殿の造営を始めました。
 殿内には義満の北御所、夫人日野康子の南御所、後円融院母崇賢(すうけん)院御所、金閣舎利殿、看雲亭(かんうんてい)など多くの殿舎が造営されました。応永15年(1408)後小松天皇を迎えて盛宴をはりましたが、2ケ月後に急逝しました。
 応永26年(1419)に北山院(日野康子)が死亡すると、舎利殿以外の建物の多くは南禅寺や建仁寺などに移されました。翌年、舎利殿は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓国師が開山しました。
 応仁の乱では西軍の陣がおかれたため舎利殿ほか一部を残して、建物の多くが焼失しました。桃山時代に相国寺の西笑承兌(さいしょうじょうたい)が入寺して復興に努め、その弟子の鳳林承章(ほうりんじょうしょう)は後水尾天皇の帰依を得て寺観を整えました。
 その後、文雅慶彦(ぶんがけいげん)により現在有る金閣の姿になったようです。江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649)に大修理されました。舎利殿(金閣)は明治30年(1897)に(旧)国宝に指定されていましたが、昭和25年(1950)放火により焼失してしまいました。

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銀閣寺庭園

2018年02月11日 | 旅 歴史
京都府京都市左京区銀閣寺町に銀閣寺(慈照寺)があります。
 中門から中に入ると東山文化のわびさびを感じさせてくれる美しい庭園が目に飛び込みます。銀閣寺の庭園は特別史跡、特別名勝に指定されています。正面に月待山、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる白砂や台形の向月台(こうげつだい)が配されています。月見の風情が伺え、枯山水と池泉回遊式の庭園は見事です。
 北・東・南の三方を山に囲まれたこの庭園は、義政が数多く作庭した庭園で唯一、現在に残されているものです。義政が最も好んでいた西芳寺の庭園を踏襲しています。上下2段で、下段は錦鏡池を中心とする池泉回遊式です。彼が東山殿に移住した後、自ら指揮して植木や庭石を移植させ,作庭したといわれています。

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銀閣(観音殿)

2018年02月10日 | 旅 歴史
京都府京都市左京区銀閣寺町に銀閣寺(慈照寺)があります。
 銀閣(観音殿)は東面と西面が8.2m、北面7.0m、南面5.9m、二重、宝形造り、こけら葺きの楼閣で、屋根には鳳凰が飾られています。一層目は住宅風の書院造りで、心空殿(しんくうでん)と呼ばれています。二層目は禅宗様の仏殿造りとなっていて、観音像が安置されています。潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれています。
  銀閣(観音殿)は鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来観音殿と呼ばれました。錦鏡池に面した東側には落縁が付き、それに続く心空殿の北東部には腰障子によって仕切られた六畳間があります。また南東部には開放的な広縁が備わっています。昭和26年(1951)戦後最初の国宝指定時に銀閣は国宝に指定されました。

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銀閣寺(慈照寺)

2018年02月09日 | 旅 歴史
京都府京都市左京区銀閣寺町に銀閣寺(慈照寺)があります。
 銀閣寺は正式には東山(とうざん)慈照寺(じしょうじ)といい、臨済宗相国寺派のお寺です。金閣寺とともに室町幕府3代将軍足利義満により創建された相国寺の塔頭寺院でもあります。8代将軍足利義政の山荘・東山殿(ひがしやまどの)を、義政の死後、遺言により禅寺としたものです。
 東山殿内に建てられた観音殿が銀箔をはる計画があったところから銀閣といわれ、寺全体の象徴的な建物となったことから銀閣寺と呼ばれるようになりました。銀閣と東求堂は国宝に指定され,銀閣寺は平成6年(1994)には世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されています。
 義政は兄の急死により、わずか8歳で将軍になりました。妻の日野富子や富子の兄勝光などが幕政に口をはさむようになり、政局は乱脈をきわめました。弟の義視を継嗣としましたが富子が義尚を生むと、富子は山名宗全と結んで義視と敵対しました。
 これが原因で応仁元年(1467)応仁の乱が起こり10年戦いが続きました。義政は文明5年(1473)、9歳の義尚に将軍を譲り、政局よりも芸術面に目を向けました。そのために自らの隠居所として文明14年(1482)から東山殿の造営に着手しました。
 この東山殿は、祖父にあたる義満の北山殿金閣(鹿苑寺)を習ったものでした。兵火で焼失した浄土寺の跡地に8年の歳月をかけて造営されました。義政は文明15年(1483)にはここに移り住み、別荘としてだけでなく表向きの仕事にも使ったようです。
 義政は作庭家の善阿弥、狩野派絵師の狩野正信、土佐派絵師の土佐光信、能楽者の音阿弥、漢文学の横川景三などを始めとした、将軍の近くで雑務や芸能にあたった同朋衆を召抱ていました。侘び寂びの要素を強く含んだ「東山文化」を築きました。
 金閣寺ほどの規模はありませんでしたが、銀閣寺にも会所、常御所(つねのごしょ)、禅堂西指庵、持仏堂の東求堂、釣秋亭、竜背橋、泉殿、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち並びました。金閣に劣らない建築にするため資金は段銭を課し、公家、寺院から普請料を徴収したそうです。
 最後に銀閣(観音殿)を上棟したのは義政が亡くなる前年の長亨3年(1489)で、完成を見ることはできませんでした。義政の死後、その遺言により東山殿は禅寺へと改められ、義政の法号「慈照院道慶喜山」から慈照院と名付けられ、翌年の延徳3年(1491)に夢窓疎石を開山として、慈照寺と改められています。
 室町時代の末期に足利将軍家と三好氏との戦の兵火で銀閣(観音殿)と東求堂以外の義政が作った建物は焼失したといわれています。その後、銀閣寺は近衛前久(さきひさ)が自分の別荘にしてしまいました。
 これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったので無理を通したようです。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉でした。前久の没後の慶長17年(1612)に幕府に訴えが出され、再び相国寺の塔頭として再興されています。
 慶長19年(1614)には徳川家康から寺領35石を安堵されました。元和元年(1615)には徳川秀忠の御伽衆となっていた宮城豊盛が慈照寺再建の奉行になり修築しています。寛永16年(1639)には門、庫裡、玄関が再建され、元文3年(1738)には東求堂が修築されました。
 大正2年(1913)には銀閣(観音殿)が解体修理され、昭和26年(1951)に東求堂と、銀閣(観音殿)が国宝に指定されました。昭和40年(1965)には東求堂が解体修理されています。
 持仏堂である東求堂は文明17年(1485)に完成しました。間口6.9m、奥行6.9m単層、入母屋造り、檜皮葺きの建物です。「同仁斎(どうじんさい)」の額が掛かっている書院は四畳半の原型とされ、初期書院造りの遺稿とされています。
 現在において創建当時と変わらぬ姿をとどめるものは初期の書院造りの遺構として貴重な東求堂と、2層の観音殿(銀閣)、そして池泉回遊式の庭園です。銀閣(観音殿)と東求堂はともに国宝、庭園も国の特別史跡および特別名勝、旧境内は史跡名勝天然記念物に指定されています。

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小林家住宅

2018年02月08日 | 旅 歴史
 京都府木津川市山城町上狛東林に小林家住宅があります。
 小林家住宅の主屋は江戸中期の寛文5年(1665)に建てられています。間口17.9m、奥行11.1m、切妻造り、茅葺きで、四面に庇が付いています。建築年代がはっきりわかる民家では最も古く、建築時の普請関係の文書も残されています。
 主屋は土間と座敷から構成され、座敷は四つの部屋にわかれ、ほぼ田の字になっています。これは近年までのこの付近の最も一般的な農家の家の構造でした。柱は一間間隔で立てられ、突止め形式の柱間は古い形式を残しています。桟瓦葺きの東面にある便所も附指定で加え、平成15年(2003)に国の重要文化財に指定されています。

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荒見神社御霊社

2018年02月07日 | 旅 歴史
 京都府城陽市富野(との)荒見田に荒見神社(あらみじんじゃ)があります。
 荒見神社の境内社である御霊社は一間社流造り、檜皮葺きで、本殿と同じ頃に建てられたと思われます。蟇股は本殿より古く、室町時代後期の特徴を持っています。ただ、ほかの組物、 木鼻は近世のもので本殿と共通しています。御霊社は京都府の有形文化財に指定されています。

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荒見神社本殿

2018年02月06日 | 旅 歴史
 京都府城陽市富野(との)荒見田に荒見神社(あらみじんじゃ)があります。
 荒見神社本殿は江戸時代の、慶長9年(1604)の棟札があり、その時に建てられています。三間社流造り、檜皮葺きで、明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。蟇股に唐獅子、木鼻には若葉が施され、細部の意匠が特徴的です。冨野の有力大工の手によるもので桃山時代の特徴を示しています。

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荒見神社

2018年02月05日 | 旅 歴史
 京都府城陽市富野(との)荒見田に荒見神社(あらみじんじゃ)があります。
 荒見神社はJR奈良線の長池駅の西約700mの森に鎮座しています。延長5年(927)の「延喜式神名帳」に「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「荒見神社」と記載がありますが、久御山町田井にも荒見神社があり、明治時代の式内社治定では後者に決められています。
 祭神として天火明尊(あめのほあかりのみこと)、天香語山尊(あめのかごやまのみこと)、天村雲尊(あめのむらくものみこと)、阿比良依姫尊(あひらよりひめのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)の五柱を祀っています。
 荒見神社は旧富野荘村の産土神で、社伝によると、大化3年(647)には長池の東方の五社ヶ谷にありましたが、寛正2年(1461)に現在地に遷座し、安羅見五社天神宮と称したようです。慶長9年(1604)に本殿などを再建。明治6年(1873)に村社になり、明治21年(1888)に荒見神社と改称しています。

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水度神社本殿

2018年02月04日 | 旅 歴史
 京都府城陽市寺田水度坂に水度神社(みとじんじゃ)があります。
 水度神社の本殿は一間社流造り、檜皮葺きで正面に大きな千鳥破風を付けています。 棟札により室町時代の文安5年(1448)に建てられていて、城陽市内で最も古い建造物です。庇の正面中央には透かし彫りの唐草と笹りんどうをあしらった欄間がつけられ、意匠を凝らした優美な建物です。明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。

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水度神社

2018年02月03日 | 旅 歴史
 京都府城陽市寺田水度坂に水度神社(みとじんじゃ)があります。
 鴻ノ巣山のふもとにある水度神社は、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、高産霊神(たかみむすびのかみ)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀っています。この地は豪族三富(みと)氏が木津川の水門と港を管理していて祖神を祀った神社と考えられています。
 平安時代の貞観元年(859)に従五位下の神位が授けられたと「三代実録」に記載され、延長5年(927)の「延喜式神名帳」には「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「水度神社三座」と書かれています。鎌倉時代、文永5年(1268)、大神宮山より現在地に遷され寺田郷の産土神となりました。

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久世神社本殿

2018年02月02日 | 旅 歴史
 京都府城陽市久世芝ヶ原に久世神社(くぜじんじゃ)があります。
 久世神社の本殿は室町時代の前期(1333-1392)頃に建てられた社殿と推定されています。丹塗りの一間社流造り、檜皮葺きで、明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。外陣正面にある格子戸には唐草模様の透かし彫りが施され、内陣正面欄間中央には巴紋文、左右に六弁の花紋をなど描かれています。

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久世神社

2018年02月01日 | 旅 歴史
 京都府城陽市久世芝ヶ原に久世神社(くぜじんじゃ)があります。
 久世神社は旧久世村の産土神(うぶすながみ) で、かつて若王社(にゃくおうしゃ)、白鳥の宮(しらとりのみや)、華霊(かりょう)天神社などと称しましたが、明治初期に久世神社と改められました。一帯は久世廃寺跡で、塔跡、金堂跡、講堂跡が土檀として残り、国指定史跡になっています。
 久世神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神として祀っています。伝承によると日本武尊は死後、西に一羽の白鷺となって飛び去り、その鷺が留まった地を鷺坂(さぎざか)山といい、ここに祀られたのが久世神社の始まりといわれています。久世神社本殿は国指定重要文化財です。
 万葉集の中の柿本人麻呂によって詠われている「鷺坂山」はこの地のことだといわれています。久世神社前には万葉句碑が立てられています。
 「山城の久世の鷺坂 神代より 春ははりつつ 秋は散りけり」 (久世の鷺坂は、神代の昔から、春は草木が芽を吹き、秋は紅葉して散るところだ)

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