京都府京都市左京区鞍馬本町に鞍馬寺(くらまでら)があります。
鞍馬寺は松尾山金剛寿命院と号し、昭和24年(1949)までは天台宗のお寺でした。今は鞍馬弘教総本山となっています。本尊は尊天と称し、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるといいます。本堂にあたるものは本殿金堂と呼ばれます。
鞍馬寺は宝亀元年(770)に鑑真和上の高弟であった鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天を本尊として祀ったのが始まりです。延暦15年(796)に藤原伊勢人によって堂塔伽藍が建立され、京都北方の守護神として人々の信仰を集めました。
寛平年間(889-897)、東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺し、鞍馬寺は真言宗に転じました。寛治5年(1091)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099)には関白藤原師通が参詣するなど信仰が広がりました。天永年間(1110-1113)、天台座主・忠尋(ちゅうじん)が入寺し天台宗に復しています。以後、鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にありました。
鞍馬寺は寛弘6年(1009)や大治元年(1126)の火災で度々罹災しましたが、朝野(ちょうや)の信仰が厚く、また糺ノ森(ただすのもり)で鞍馬寺塔婆勧進猿楽を催したりして復興してきました。江戸時代には10院9坊を持つ大寺院になっています。
文化9年(1812)に一山炎上する大火災に遭い、明治政府の廃仏毀釈で院坊は廃され、衰退しました。昭和20年(1945)には火災で本殿などが焼失しています。今ある堂宇はいずれも近年再建された建物ですが、仏像などの文化財は無事残され、国宝、重要文化財に多数指定されています。
鞍馬寺には源義経の遺跡が残されています。源義朝の子で、母は常盤御前、源頼朝の異母弟です。幼名は牛若丸、遮那王丸、源九郎。平治の乱で義朝が敗れ、母とともに平宗清に捕えられましたが、平清盛により助けられ鞍馬寺に預けられました。鞍馬で成長し藤原秀衡の庇護を受けた後、平家を滅ぼしましたが頼朝の威に屈した秀衡の子泰衡に襲われ衣川館で自刃しました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/
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鞍馬寺は松尾山金剛寿命院と号し、昭和24年(1949)までは天台宗のお寺でした。今は鞍馬弘教総本山となっています。本尊は尊天と称し、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるといいます。本堂にあたるものは本殿金堂と呼ばれます。
鞍馬寺は宝亀元年(770)に鑑真和上の高弟であった鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天を本尊として祀ったのが始まりです。延暦15年(796)に藤原伊勢人によって堂塔伽藍が建立され、京都北方の守護神として人々の信仰を集めました。
寛平年間(889-897)、東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺し、鞍馬寺は真言宗に転じました。寛治5年(1091)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099)には関白藤原師通が参詣するなど信仰が広がりました。天永年間(1110-1113)、天台座主・忠尋(ちゅうじん)が入寺し天台宗に復しています。以後、鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にありました。
鞍馬寺は寛弘6年(1009)や大治元年(1126)の火災で度々罹災しましたが、朝野(ちょうや)の信仰が厚く、また糺ノ森(ただすのもり)で鞍馬寺塔婆勧進猿楽を催したりして復興してきました。江戸時代には10院9坊を持つ大寺院になっています。
文化9年(1812)に一山炎上する大火災に遭い、明治政府の廃仏毀釈で院坊は廃され、衰退しました。昭和20年(1945)には火災で本殿などが焼失しています。今ある堂宇はいずれも近年再建された建物ですが、仏像などの文化財は無事残され、国宝、重要文化財に多数指定されています。
鞍馬寺には源義経の遺跡が残されています。源義朝の子で、母は常盤御前、源頼朝の異母弟です。幼名は牛若丸、遮那王丸、源九郎。平治の乱で義朝が敗れ、母とともに平宗清に捕えられましたが、平清盛により助けられ鞍馬寺に預けられました。鞍馬で成長し藤原秀衡の庇護を受けた後、平家を滅ぼしましたが頼朝の威に屈した秀衡の子泰衡に襲われ衣川館で自刃しました。
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