富山県中新川郡立山町芦峅寺に雄山(おやま)神社中宮祈願殿があります。
雄山神社は、立山雄山宮とも称し、立山を神体とする3つの神社の総称です。立山山頂にある峰本社、芦峅寺(あしくらじ)に建つ中宮祈願殿、岩峅寺(いわくらじ)に建つ前立社壇です。この3社を合わせたものが宗教法人雄山神社です。
奈良時代中期の大宝元年(701)、慈興上人が開基したと伝えられ、立山権現ともいわれたそうです。慈興上人は越中国司佐伯宿祢有若の嫡男で佐伯有頼という人でした。この有頼が少年の時、白鷹と熊に導かれ立山の岩窟に行くと、雄山大神の分身が現れこの地に霊山を開くよう導かれたそうです。
古来、富士山・白山と共に日本三霊山の1つとして広く信仰され、山岳信仰の霊場として崇敬されました。別当の芦峅寺、岩峅寺とともに繁栄しました。朝廷や幕府などの為政者や権力者、戦国大名などの権力者から崇敬庇護を受けました。
雄山神社は貞観5年(863)の日本三代実録では正五位上、寛平元年(889)の日本紀略には従四位下、延長5年(927)の延喜式神名帳には式内社(小社)に列しています。南北朝時代には越中国一宮とされ、文武天皇と後醍醐天皇の勅願所にもなりました。
中宮祈願殿は、立山博物館の西隣にあり、神仏混合し立山中宮寺とか芦峅寺といわれるお寺でした。立山の主峰「雄山」を正面に頂く位置にあり、開祖・慈興上人(佐伯有頼)は、この地で晩年を過ごしました。明治初期の神仏分離令以後、雄山神社中宮祈願殿と称するようになりました。
古来より武将や公家の信仰も篤く、女人禁制の立山信仰において、立ち入る事が出来た最終地でもありました。広大な境内左手奥に西本殿(立山大宮)があり、右手奥に東本殿(立山若宮)があります。中央にある祈願殿は江戸時代までは大講堂と呼ばれていた建物で、拝殿にあたります。
江戸時代には加賀藩主前田家の祈願所として手厚く保護され社運も隆盛しました。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、大部分の堂宇が破壊され、門前町で栄えた宿坊も姿を消しました。
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