話の流れとしては、前回記事の続きとなります。
プノンペン郊外のチュンエクに存在したクメール・ルージュの処刑所、いわゆる「キリング・フィールド」を見学した後に、そこで処刑された人々が収容されていた政治犯収容所「S21(トゥール・スレン)」も訪問することにしました。ゲートの前で待たせておいたバイクタクシーに再び跨がり、土埃で煙る未舗装の凸凹田舎道をぴょんぴょん跳ねながら、プノンペンの市街へと戻ります。キリングフィールドから約30分で到着しました。
ゲートにて入場料(2米ドルだったはず)を支払うと、引き換えに3つ折のリーフレットが手渡されます。キリングフィールドとは異なり、こちらには残念ながら日本語資料は用意されていませんが、リーフレットの片面は英語表記により説明されていましたので、スマホの辞書と首っ引きで、順路に従い構内を見学することにしました。
収容所としては1976年頃に開設されたんだそうですが、元々ここは高校だったんだそうでして、なるほど構内の佇まいは収容所というより学校そのもの。原始共産社会を目指すクメール・ルージュにとって、インテリや知識を育む学校なんて無用の長物だったのでしょうね。校内、いや構内からは発展途上のプノンペンの街並みも望めます。校舎跡の建物に囲まれた広場は、学生が体育の授業で所狭しと走り回っていた校庭だったと思われます。
でも、学校だったら、塀にこんな有刺鉄線なんか必要ないですよね。有刺鉄線の支柱には、ケーブルを固定する碍子が取り付けられていますから、収容者の逃亡を防ぐために電流が流されていたのでしょう。なお敷地の外周は600m×400m。
元校庭だった広場の一角には白く塗られた石棺が並べられています。
ベトナム軍とその後押しを受けたカンボジア救国民族統一戦線(反ポル・ポト派)が攻勢をかけて1979年1月にプノンペンを占領すると、それまで秘密にされていたこの収容所の存在も明らかになったのですが、その際に収容所内で女性一人を含む14体の腐乱死体が発見されたので、この広場に搬出して葬られたんだそうです。これらの人々は、クメール・ルージュがプノンペンを放棄して遁走するに当たり、最後に拷問・処刑された人とされています。
その隣にある高い木柱は、元々体育の授業用に使われていたんだそうですが、収容所となってからは拷問用として転用されたんだとか(こんな高い器具を使う体育の種目って何だったんだろう…)。梁の部分には吊り金具が見えますが、具体的な拷問方法としては、後ろ手に縛って吊し上げて拷問し、気絶したら綱を下ろして汚い水が入ったに頭を浸して、意識が戻ったら再び上に吊るしあげて拷問を再開。これを何度も繰り返したんだそうです。人を吊って上下させると、柱にかなりの負荷がかかりますから、本当にここで拷問が行われていたならば、この構造物は意外と頑丈に基礎造りされていたことになります。
●A棟
構内にはA~Dの4棟があり、いずれも高校の校舎らしい3階建ての横に長い造り。まずはA棟から見学します。廊下や階段など、いかにも東南アジアの学校らしい趣きですね。
A棟は校舎としての構造がそのまま残されていて、1階は小さな教室が10室、2階と3階はそれより大きな教室が5つあり、各室において「反革命分子」に対する尋問や拷問が行われていたわけです。上画像のように、黒板が取り付けられた室内はまさに教室そのもの。でも入口左側の小窓に嵌められている鉄格子が、ただならぬ施設であることを示唆しています。
1階の小さな教室は6m×4mの寸法。収容所となってからは室内に拘束用ベッドが搬入されています。ベッドの上に乗っかっている鉄の箱は、汚物を入れるためのもの。飯なんかろくすっぽ食わせてくれなかったんでしょうから、出るものも出なかったのでしょうけど、それにしたって、トイレも行かせてくれなかったとは酷い話です。
なお上述の14人の遺体はこのような個室で発見されており、その当時の写真も展示されています。ベトナムと反ポル・ポト派がプノンペン占領した際には、ベトナムの従軍記者も同行しており、収容所の存在が白日の下にさらされると、政治的な宣伝目的もあったのか、発見時の内部の凄惨な様子が記録撮影されたようです。それにしても、無理やり濡れ衣を被せられた人が、目の前にあるベッドの上で非業の死を遂げたと思うと、その無念たるや如何許りか…。なお、拷問中の悲鳴が外部へ漏れないよう、窓はガラスで密閉されていたそうですが、状況が状況だけに、とんでもない悪臭が漂っていたのではないでしょうか。ましてや遺体発見時なんて…。
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この建物では当時の写真が展示されているのですが、全てを取り上げるときりがないので、そのほんのごく一部を紹介します。上画像の左上は「民主カンプチア」、いわゆるポル・ポト政権のリーダー達を写したもの。一番左にはポル・ポトの顔写真もありますね。右上は、ロン・ノル政権が崩壊してクメール・ルージュの勢力が権力を掌握した、1975年4月17日のプノンペン市街を撮影した写真の数々。進軍するクメール・ルージュの戦士たちを、プノンペンの市民が喜びの表情で歓迎しています。ベトナム戦争の余波を受けてカンボジアの国民まで犠牲になったり、その影響で農村が大打撃を受けて食糧難になったり、それでいて当時のロン・ノル政権は汚職まみれだったりと、どうしようもない国内事情でしたから、きっとプノンペンの人々にとってポル・ポト派は救世主に思えたのかもしれません。でもその歓喜が、まさか糠喜びどころか悪夢になるとは…。
ポル・ポトの施政下においては、都市民が一斉に農村へ強制移住させられたことも有名ですが、画像の左下および右下はその強制移住によって野良仕事をさせられている人々の様子を写した(あるいはイラストとして描いた)ものです。
(画像をクリックすると拡大します)
展示されている膨大な数の顔写真も印象的。
まず左(上)画像の左上と右上は、それぞれ男性と女性の顔写真がズラリと並べられており、おばさんの写真も数枚含まれているものの、大部分がティーンエージャーと思しき若者であり、番号札をつけておらず、微笑を浮かべる人もいることから、少年少女の看守達ではないかと思われます。クメール・ルージュといえば少年兵が有名ですが、権力者の都合によって洗脳されやすいティーンエージャーは、環境次第で大人顔負けの凄惨な行為を率先して実践する傾向にあり、それゆえ少年兵が残虐行為を積極的に働くという地獄絵図が繰り広げられてしまったのでしょうね。尤も、この少年看守達も、後々に非業の死を遂げることとなります。
一方、下半分に並ぶバストショットは胸に番号札を付けていますから、おそらく囚人として扱われた人々なのでしょう。
右(下)画像も囚人たちの記録ですが、番号札をはじめ、それを付けさせられた人々、そして処刑後の状況まで事細かに撮影されています。この収容所では、収容した人の写真や各種の調書、そして恐怖政治にはつきものの自己批判文が大量に作成されたんだそうでして、その当時の記録が今でも残っているわけです。収容所ですから、一応手続きとして記録をしっかり管理していたのでしょうけど、こんな詳細な撮影する余裕があれば、その分のリソースをもっと有意義なことへ回せば良かったのになぁ。
各室の床は白と橙色の市松模様となっており、当時の写真にもその模様が写っているのですが、私の足元にはところどころに赤黒いシミが残っており、これらはもしかしたら犠牲者の体から滴り落ちた当時の血痕なのかもしれません。
左(上)画像は収容された人々が身につけていた衣服。中には子供服もありました。右(下)画像に写っている演説台と思しき台には、なぜか黒いバッテンが付けられていたのですが、これってどういう意味?
たくさんの金属の輪が連続して取り付けられているこの器具は、間違いなく拘束具でしょう。拘束具の傍らにはポル・ポトの胸像が置かれ、その顔には黒いバッテンが記されていました。先程の演説台にも黒いバツが付せられていましたが、いずれもクメール・ルージュの撤退後に書かれたのでしょうね。それにしても独裁者って、洋の東西を問わず、みんな自分の像や肖像画をあちこちに飾りたがるものですよね。
●C棟
C棟もA棟と同じような外観ですが、教室としての造りが保たれていたA棟と異なり、こちらは収容施設として使えるよう、内部が改築されています。具体的には後ほど。
廊下のテラス部分には有刺鉄線が縦横無尽に張り巡らされていますが、これは絶望した収容者の飛び降り自殺を防ぐための措置なんだとか。
内部の改築とは、教室内を細かく仕切って牢獄にすること。元々教室だった室内にパーテーションを立てることにより、独居房が設けられたんですね。C棟の1階ではパーテーションの建材としてレンガが用いられています。一区画はおおよそ0.8m×2mとという狭さ。たとえ拘禁生活でなくとも、こんな空間で監禁されたら、どんな人でも衰弱しちゃいますよ。窓には鉄格子が嵌められている他、各区画には鎖も繋がれていました。なお室内に置かれた鉄の箱は汚物入れ。
2階の教室も独居房に改築されていましたが、こちらの仕切りには木材が使われていました。レンガだとコストや建築期間が嵩んだのかもしれませんね。小窓は差し入れや呼び出しなどで使うのかな。なお、もう1フロア上の3階は雑居房として使われていたそうです。
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拷問や処刑に使われた道具も展示されていました。各道具の上に掲示されたイラストによって、どのように使われたのか説明されています。
収容者の処刑は基本的に前回記事で取り上げたチュンエクの「キリング・フィールド」など、収容所の外部で行われたようですが、開所初期には敷地の裏手へ遺体が埋葬されており、またその調査でも敷地内でも数十の遺骨が発見されたようです。これらの遺骨は館内の一角で安置されており、室内には慰霊の鐘も設けられていました。
「キリング・フィールド」とこの「S1(トゥール・スレン)」の2ヶ所を見学したことにより、今回のカンボジア旅行は目的完遂。いずれの施設でも、人種や年齢を問わず多くの見学客が訪れており、みな一様に口を真一文字に結んで、それぞれが過去の悲劇に思いを巡らせていました。その思いは十人十色。さまざまな捉え方で、一つ一つを見つめていたのでしょう。
団塊ジュニア世代である私の誕生と軌を一にして、カンボジアではポル・ポトによる統治が始まっています。赤ん坊の私が本能の赴くままに母ちゃんのおっぱいの吸って、親の寵愛に育まれてのほほんと平和な生活を送っていた同じ時間に、この国では親と子供が隔絶されて、子供は強制労働に従事させられたり、あるいは恐怖心や服従心に煽られて残忍な少年兵となっていったわけです。そして大人たちも様々な言いがかりをつけられて次々に粛清され、地獄のような残虐な日々が繰り返されていたんですね。現地へ行ってその跡を見学すれば、きっと歴史に対する知識や理解が深まるだろうと考えていたのですが、むしろ見学したことにより、自分の人生とパラレルな時間軸で起こった惨劇が、却って理解できなくなりました。現実として黙視することにより、他人事として捉えられなくなったからかもしれません。たしかに狂気の沙汰であって、夥しい犠牲者達の心情を慮ると非常に気が重くなるのですが、一方で、もし自分が権力者側の立場に立っていたら、果たしてどうしていただろうか、あるいは疑心暗鬼の渦の中、いつ「反革命分子」扱いされるかわかったもんじゃない状況で、自分の命が危うくなった時、いつまでも正義を振りかざしていられるだろうか…。見学しながらそんなことを考えているうちに、すっかり頭が混乱してしまいました。歴史を振り返ってその暗黒部を糾弾するのは簡単ですが、しかしながら何事も単純な対立構造で理解できるものではないのでしょう。負の歴史を教訓にして、同じような歴史を繰り返さないのはもちろんのこと、日々の生活でも、その小さな相似形として現れるような現象、たとえば身近な組織における恐怖支配や理性の排除といったことを、できるだけ防いでゆくことが、結果として悪夢の萌芽を摘み取ることになるのかな、とぼんやり乍ら自戒したのでした。見学を通じて感じたことや言いたいことはたくさんありますが、全部述べていたらキリがないので、今回はこのあたりで留めておきます。
この2つの記事だけでプノンペン旅行記を締めたら、この街がとんでもなく陰鬱に映ってしまいますから、そうなる事態を打ち消すべく、重く沈んだ心を奮い起こし、次回記事ではぶらぶらと街を散策してみます。
プノンペン郊外のチュンエクに存在したクメール・ルージュの処刑所、いわゆる「キリング・フィールド」を見学した後に、そこで処刑された人々が収容されていた政治犯収容所「S21(トゥール・スレン)」も訪問することにしました。ゲートの前で待たせておいたバイクタクシーに再び跨がり、土埃で煙る未舗装の凸凹田舎道をぴょんぴょん跳ねながら、プノンペンの市街へと戻ります。キリングフィールドから約30分で到着しました。
ゲートにて入場料(2米ドルだったはず)を支払うと、引き換えに3つ折のリーフレットが手渡されます。キリングフィールドとは異なり、こちらには残念ながら日本語資料は用意されていませんが、リーフレットの片面は英語表記により説明されていましたので、スマホの辞書と首っ引きで、順路に従い構内を見学することにしました。
収容所としては1976年頃に開設されたんだそうですが、元々ここは高校だったんだそうでして、なるほど構内の佇まいは収容所というより学校そのもの。原始共産社会を目指すクメール・ルージュにとって、インテリや知識を育む学校なんて無用の長物だったのでしょうね。校内、いや構内からは発展途上のプノンペンの街並みも望めます。校舎跡の建物に囲まれた広場は、学生が体育の授業で所狭しと走り回っていた校庭だったと思われます。
でも、学校だったら、塀にこんな有刺鉄線なんか必要ないですよね。有刺鉄線の支柱には、ケーブルを固定する碍子が取り付けられていますから、収容者の逃亡を防ぐために電流が流されていたのでしょう。なお敷地の外周は600m×400m。
元校庭だった広場の一角には白く塗られた石棺が並べられています。
ベトナム軍とその後押しを受けたカンボジア救国民族統一戦線(反ポル・ポト派)が攻勢をかけて1979年1月にプノンペンを占領すると、それまで秘密にされていたこの収容所の存在も明らかになったのですが、その際に収容所内で女性一人を含む14体の腐乱死体が発見されたので、この広場に搬出して葬られたんだそうです。これらの人々は、クメール・ルージュがプノンペンを放棄して遁走するに当たり、最後に拷問・処刑された人とされています。
その隣にある高い木柱は、元々体育の授業用に使われていたんだそうですが、収容所となってからは拷問用として転用されたんだとか(こんな高い器具を使う体育の種目って何だったんだろう…)。梁の部分には吊り金具が見えますが、具体的な拷問方法としては、後ろ手に縛って吊し上げて拷問し、気絶したら綱を下ろして汚い水が入ったに頭を浸して、意識が戻ったら再び上に吊るしあげて拷問を再開。これを何度も繰り返したんだそうです。人を吊って上下させると、柱にかなりの負荷がかかりますから、本当にここで拷問が行われていたならば、この構造物は意外と頑丈に基礎造りされていたことになります。
●A棟
構内にはA~Dの4棟があり、いずれも高校の校舎らしい3階建ての横に長い造り。まずはA棟から見学します。廊下や階段など、いかにも東南アジアの学校らしい趣きですね。
A棟は校舎としての構造がそのまま残されていて、1階は小さな教室が10室、2階と3階はそれより大きな教室が5つあり、各室において「反革命分子」に対する尋問や拷問が行われていたわけです。上画像のように、黒板が取り付けられた室内はまさに教室そのもの。でも入口左側の小窓に嵌められている鉄格子が、ただならぬ施設であることを示唆しています。
1階の小さな教室は6m×4mの寸法。収容所となってからは室内に拘束用ベッドが搬入されています。ベッドの上に乗っかっている鉄の箱は、汚物を入れるためのもの。飯なんかろくすっぽ食わせてくれなかったんでしょうから、出るものも出なかったのでしょうけど、それにしたって、トイレも行かせてくれなかったとは酷い話です。
なお上述の14人の遺体はこのような個室で発見されており、その当時の写真も展示されています。ベトナムと反ポル・ポト派がプノンペン占領した際には、ベトナムの従軍記者も同行しており、収容所の存在が白日の下にさらされると、政治的な宣伝目的もあったのか、発見時の内部の凄惨な様子が記録撮影されたようです。それにしても、無理やり濡れ衣を被せられた人が、目の前にあるベッドの上で非業の死を遂げたと思うと、その無念たるや如何許りか…。なお、拷問中の悲鳴が外部へ漏れないよう、窓はガラスで密閉されていたそうですが、状況が状況だけに、とんでもない悪臭が漂っていたのではないでしょうか。ましてや遺体発見時なんて…。
(画像をクリックすると拡大します)
この建物では当時の写真が展示されているのですが、全てを取り上げるときりがないので、そのほんのごく一部を紹介します。上画像の左上は「民主カンプチア」、いわゆるポル・ポト政権のリーダー達を写したもの。一番左にはポル・ポトの顔写真もありますね。右上は、ロン・ノル政権が崩壊してクメール・ルージュの勢力が権力を掌握した、1975年4月17日のプノンペン市街を撮影した写真の数々。進軍するクメール・ルージュの戦士たちを、プノンペンの市民が喜びの表情で歓迎しています。ベトナム戦争の余波を受けてカンボジアの国民まで犠牲になったり、その影響で農村が大打撃を受けて食糧難になったり、それでいて当時のロン・ノル政権は汚職まみれだったりと、どうしようもない国内事情でしたから、きっとプノンペンの人々にとってポル・ポト派は救世主に思えたのかもしれません。でもその歓喜が、まさか糠喜びどころか悪夢になるとは…。
ポル・ポトの施政下においては、都市民が一斉に農村へ強制移住させられたことも有名ですが、画像の左下および右下はその強制移住によって野良仕事をさせられている人々の様子を写した(あるいはイラストとして描いた)ものです。
(画像をクリックすると拡大します)
展示されている膨大な数の顔写真も印象的。
まず左(上)画像の左上と右上は、それぞれ男性と女性の顔写真がズラリと並べられており、おばさんの写真も数枚含まれているものの、大部分がティーンエージャーと思しき若者であり、番号札をつけておらず、微笑を浮かべる人もいることから、少年少女の看守達ではないかと思われます。クメール・ルージュといえば少年兵が有名ですが、権力者の都合によって洗脳されやすいティーンエージャーは、環境次第で大人顔負けの凄惨な行為を率先して実践する傾向にあり、それゆえ少年兵が残虐行為を積極的に働くという地獄絵図が繰り広げられてしまったのでしょうね。尤も、この少年看守達も、後々に非業の死を遂げることとなります。
一方、下半分に並ぶバストショットは胸に番号札を付けていますから、おそらく囚人として扱われた人々なのでしょう。
右(下)画像も囚人たちの記録ですが、番号札をはじめ、それを付けさせられた人々、そして処刑後の状況まで事細かに撮影されています。この収容所では、収容した人の写真や各種の調書、そして恐怖政治にはつきものの自己批判文が大量に作成されたんだそうでして、その当時の記録が今でも残っているわけです。収容所ですから、一応手続きとして記録をしっかり管理していたのでしょうけど、こんな詳細な撮影する余裕があれば、その分のリソースをもっと有意義なことへ回せば良かったのになぁ。
各室の床は白と橙色の市松模様となっており、当時の写真にもその模様が写っているのですが、私の足元にはところどころに赤黒いシミが残っており、これらはもしかしたら犠牲者の体から滴り落ちた当時の血痕なのかもしれません。
左(上)画像は収容された人々が身につけていた衣服。中には子供服もありました。右(下)画像に写っている演説台と思しき台には、なぜか黒いバッテンが付けられていたのですが、これってどういう意味?
たくさんの金属の輪が連続して取り付けられているこの器具は、間違いなく拘束具でしょう。拘束具の傍らにはポル・ポトの胸像が置かれ、その顔には黒いバッテンが記されていました。先程の演説台にも黒いバツが付せられていましたが、いずれもクメール・ルージュの撤退後に書かれたのでしょうね。それにしても独裁者って、洋の東西を問わず、みんな自分の像や肖像画をあちこちに飾りたがるものですよね。
●C棟
C棟もA棟と同じような外観ですが、教室としての造りが保たれていたA棟と異なり、こちらは収容施設として使えるよう、内部が改築されています。具体的には後ほど。
廊下のテラス部分には有刺鉄線が縦横無尽に張り巡らされていますが、これは絶望した収容者の飛び降り自殺を防ぐための措置なんだとか。
内部の改築とは、教室内を細かく仕切って牢獄にすること。元々教室だった室内にパーテーションを立てることにより、独居房が設けられたんですね。C棟の1階ではパーテーションの建材としてレンガが用いられています。一区画はおおよそ0.8m×2mとという狭さ。たとえ拘禁生活でなくとも、こんな空間で監禁されたら、どんな人でも衰弱しちゃいますよ。窓には鉄格子が嵌められている他、各区画には鎖も繋がれていました。なお室内に置かれた鉄の箱は汚物入れ。
2階の教室も独居房に改築されていましたが、こちらの仕切りには木材が使われていました。レンガだとコストや建築期間が嵩んだのかもしれませんね。小窓は差し入れや呼び出しなどで使うのかな。なお、もう1フロア上の3階は雑居房として使われていたそうです。
(画像をクリックすると拡大します)
拷問や処刑に使われた道具も展示されていました。各道具の上に掲示されたイラストによって、どのように使われたのか説明されています。
収容者の処刑は基本的に前回記事で取り上げたチュンエクの「キリング・フィールド」など、収容所の外部で行われたようですが、開所初期には敷地の裏手へ遺体が埋葬されており、またその調査でも敷地内でも数十の遺骨が発見されたようです。これらの遺骨は館内の一角で安置されており、室内には慰霊の鐘も設けられていました。
「キリング・フィールド」とこの「S1(トゥール・スレン)」の2ヶ所を見学したことにより、今回のカンボジア旅行は目的完遂。いずれの施設でも、人種や年齢を問わず多くの見学客が訪れており、みな一様に口を真一文字に結んで、それぞれが過去の悲劇に思いを巡らせていました。その思いは十人十色。さまざまな捉え方で、一つ一つを見つめていたのでしょう。
団塊ジュニア世代である私の誕生と軌を一にして、カンボジアではポル・ポトによる統治が始まっています。赤ん坊の私が本能の赴くままに母ちゃんのおっぱいの吸って、親の寵愛に育まれてのほほんと平和な生活を送っていた同じ時間に、この国では親と子供が隔絶されて、子供は強制労働に従事させられたり、あるいは恐怖心や服従心に煽られて残忍な少年兵となっていったわけです。そして大人たちも様々な言いがかりをつけられて次々に粛清され、地獄のような残虐な日々が繰り返されていたんですね。現地へ行ってその跡を見学すれば、きっと歴史に対する知識や理解が深まるだろうと考えていたのですが、むしろ見学したことにより、自分の人生とパラレルな時間軸で起こった惨劇が、却って理解できなくなりました。現実として黙視することにより、他人事として捉えられなくなったからかもしれません。たしかに狂気の沙汰であって、夥しい犠牲者達の心情を慮ると非常に気が重くなるのですが、一方で、もし自分が権力者側の立場に立っていたら、果たしてどうしていただろうか、あるいは疑心暗鬼の渦の中、いつ「反革命分子」扱いされるかわかったもんじゃない状況で、自分の命が危うくなった時、いつまでも正義を振りかざしていられるだろうか…。見学しながらそんなことを考えているうちに、すっかり頭が混乱してしまいました。歴史を振り返ってその暗黒部を糾弾するのは簡単ですが、しかしながら何事も単純な対立構造で理解できるものではないのでしょう。負の歴史を教訓にして、同じような歴史を繰り返さないのはもちろんのこと、日々の生活でも、その小さな相似形として現れるような現象、たとえば身近な組織における恐怖支配や理性の排除といったことを、できるだけ防いでゆくことが、結果として悪夢の萌芽を摘み取ることになるのかな、とぼんやり乍ら自戒したのでした。見学を通じて感じたことや言いたいことはたくさんありますが、全部述べていたらキリがないので、今回はこのあたりで留めておきます。
この2つの記事だけでプノンペン旅行記を締めたら、この街がとんでもなく陰鬱に映ってしまいますから、そうなる事態を打ち消すべく、重く沈んだ心を奮い起こし、次回記事ではぶらぶらと街を散策してみます。