温泉逍遥

思いつきで巡った各地の温泉(主に日帰り温泉)を写真と共に紹介します。取り上げるのは原則的に源泉掛け流しの温泉です。

カンボジア現代史の暗黒 その1 キリング・フィールド

2015年04月07日 | 東南アジア旅行記
※今回の記事も温泉は登場しません。あしからず。
※この記事には一部の方に不快と感じられる画像がありますのでご了承ください。


昨年(2014年)のカンボジア旅行における最大の目的は、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)による惨劇の地を訪れることでした。いつもの拙ブログでは温泉ばかり取り上げておりますが、日本でも海外でも、訪問する先々では温泉だけでなく、ご当地のグルメを楽しんだり、四季を感じられる景勝を愛でたり、名所旧跡を巡ったり、各地の風土を知るべく民俗資料館へ赴いたりと、意外にもいろんなことを実践しています。そんな私の旅の中でも大きな目的のひとつとなっているのが、近現代史の史跡、とりわけ人類の負の側面を自分の目で見つめ直すこと。学生時代から今に至るまで、歴史の現場や各種資料館などを、国内外問わず訪れるようにしているのですが、そんな中でも以前から強い関心があったのが、ポル・ポトによるカンボジアの恐怖政治でした。
人類の悲劇は現在に至るまで世界中至ることで繰り返されているものの、数十万や数百万に及ぶような非人道的な大虐殺なんて第二次大戦以前の話であり、少なくとも団塊ジュニア世代の自分が生まれ育った世の中は至って平和で、そんな惨劇は過ぎ去った過去の出来事であると、青少年時代の私は思い込んでいました。しかしながら、学生時代に触れた書籍や映像資料によって、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)による大量虐殺や、中国の文化大革命など、自国の権力が自国民を虐殺していた事実を知った時は、それらが私の人生と同時代に、日本と同じアジアの地で発生していたことに大変衝撃を受けました。
日本にいる限りは、そのような悪夢をリアリティをもって掴むことができませんから、書籍や資料で調べるばかりでなく、実際に現地へ赴いて自分の目で確かめてみたい。文化大革命関係の史跡は、中国の共産党支配が続く限り、公に開放されることは期待できませんが、ポル・ポト関係については、プノンペンの施設などで観光客に対して公開されているので、現地へ旅行をすれば誰でも見学することができます。昨年ようやくカンボジアへ行く機会を得たので、それらの史跡を巡り、自分と同時代に起こった悲劇を感じることにしました。


 
現地催行のツアーに参加すれば、黙っていても希望の場所へ連れて行ってくれるのでしょうけど、いつものように私は勝手気ままな一人旅ですし、自分のペースでじっくり巡りたかったので、今回はツアーには申し込まず、自分で行くことにしました。でも現地までの公共交通機関は無いに等しく、決してプノンペンの街中から歩いて行けるような距離でも無さそうです。そこで、ホテルの傍で暇そうにしていたバイクタクシーに声をかけ、相手の言い値から半分に値切った10米ドルで、キリングフィールドと、次回記事に紹介するトゥール・スレン虐殺博物館の2箇所を巡って市街へ戻ってくるよう、お願いしました。いまにもぶっ壊れそうなポンコツスクーターの後ろにまたがり、ノーヘルのまんまでプノンペンの街中をぶっ飛ばします。

はじめのうちはいかにも都会らしい幹線道路を快走するのですが、徐々に街並みが田舎臭くなり、やがてバイクは幹線道路から離れて集落の中へと入って、土埃が舞い上がるバンピーな路地をぴょんぴょん跳ねながら進んでいきました。とても外国人旅行者が踏み入れるような場所ではないため、本当にこの道で正しいのか、もしかしたら誘拐拉致されちゃんじゃないか、キリングフィールドに向かう俺が殺されちゃうのかと、嫌な不安が脳裏をよぎるのですが、この場で降ろされても路頭に迷うだけですから、振り落とされないようにバイクをしっかりと掴んで、土埃まみれになりながら運命を天に任せる他ありませんでした。


 
バイクは決して私を拉致しようとしていたわけではなく、幹線道路を避けてショートカットする裏道を走っていたのでした。街中を出発して30分強で、第一の目的地であるキリング・フィールド、現在の正式名称「チュンエク大量虐殺センター」に到着です。キリング・フィールド(Killing Field)とは、その名の通り、ポル・ポト時代に人殺しが行われた現場の俗称であり、国内には無数の処刑場があったのですが、その中でもプノンペン近郊のチュンエクにある処刑場が最も有名で、且つ外国人旅行者の受け入れ体制も整っているので、こちらを訪れたわけです。
ゲート前の駐車場には大型の観光バスが何台も止まっていた他、私のように個人でバイクタクシーやトゥクトゥクなどをチャーターして訪れる旅行者も多く見られました。またゲート付近には売店や食堂などもありますから、現地までの足さえ確保できれば、他のことは気にせず訪問できるかと思います。


 
ゲートで料金を支払って入場します。ゲートの先ではオーディオガイドの貸出コーナーがあり、別途料金不要で利用可能。オーディオガイドはカンボジア語や英語の他、中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語など10ヶ国語に対応しており、日本語にも対応していました。機器の貸与とともに、日本語表記のパンフレットを受け取り、いざ園内へと歩みを進めます。


 
園内はとても綺麗に整備されており、南国の花々が彩りを添え、まさに美しいガーデンそのもの。本当にここが阿鼻叫喚の無間地獄だったのかな。


 
オーディオガイドに設定されている順番に従い、園内を反時計回りにめぐります。順路としては比較的初めの方で、上画像のささくれだった植物を目にすることになります。南国では特段珍しくもないヤシ科の木ですが、解説によれば、鋭い鋸歯状になっている木の葉を用いて、処刑の際に喉を掻っ切ったというのですから、何とも恐ろしい。この木が当時から生え続けているものであるかはわかりませんが、順路のはじめの方でこれですから、いきなり心がドヨーンと重くなっちゃいます。やっぱりここはガーデンなどと言う穏やかなところじゃないんだな。


 
こちらは450体の遺体が見つかった埋葬地。敷地内には遺体がまとまって埋葬されている区画がいくつもあり、その一部はこのように屋根掛けされ、四方を柵で囲われていました。柵や内部に見られる色とりどりの紐(ミサンガ等)は、犠牲者を霊を弔うため、訪問者が供えたもの。処刑場が発見された当時の写真も展示されています。


 
同じくこちらも大量埋葬地。左(上)画像は、166体の遺体が見つかったところで、ここの遺体は頭が無かったそうです。一方、右(下)画像は100体におよぶ子どもや女性の遺体が見つかった場所で、その多くは裸にされていたとのこと。


 
屋根掛けされた大量埋葬地以外にも、遺体が埋められていた(あるいは転がっていた)らしく、足元をよく見ていると、上画像のように骨が土に半分埋もれつつ、野晒しになっていました。


 
敷地内は発掘作業によってあちこち刳られており、通路部分を残してワッフルみたいな凸凹になっていました。その周囲に立つ樹々は、一見すると何気なく生えているように見えますけど、大きな樹は処刑場時代に何らかの機能を果たしていたようです。たとえば・・・


 
弔いの飾りがたくさん掛けられている左(上)画像の大樹。子供が処刑される際は、この木に叩きつけられたんだとか。クメール・ルージュの残忍性を語る上で、洗脳された少年兵の存在を見逃すことはできず、この地における処刑にも少年兵が大いに関わっているはずですが、子供が子供を木に打ち付けるだけの体力なんて無いでしょうから、もし本当にそのような殺し方が行われたのであれば、おそらく大人が手を下したのでしょう。子供を処刑するだなんて想像もできませんが、有名なミルグラム実験によって説明されるように、人間たるもの、彼らと同じ境遇に追い込まれたら、余程の強靭な精神を持たない限り、己に課せられた責務としてどんな惨いこともやってしまうのでしょう。私だって肝っ玉が小さくて自分がかわいい小市民に過ぎないのだから、もし自分がその立場にいたら…と想像すると、他人事として片付けることはできません。
一方、右(下)画像の菩提樹は"Magic Tree"と称されており、解説板によれば、この木に拡声器をぶら下げ、大音量を流すことによって、処刑者の悲鳴を掻き消していたんだとか。恐ろしいマジックだこと。



敷地内には華人の墓が数基残っていました。たとえば上画像の墓石には「祖 考国倫社公 妣如蓮洪民」という文字が2列に並んで彫られています。中華圏のお墓で「考…」は亡き父、「妣…」は亡き母という意味です。また左端には「一九六九己酉年十月初二日」と日付も記されていますので、すなわち1969年10月2日に、華人華僑の子供が両親のために建立したお墓ということになるのでしょう。この地が処刑場と化すのはそれから7~8年後。亡くなったご両親の御霊も、墓を建てた子どもたちの努力も、浮かばれたもんじゃありません。
こうしたお墓が当地に複数残っているということは、この処刑場は元々華人の墓地だったんですね。つまり、闇雲にこの場所が選定されたのではなく、華人という(東南アジアではしばしば恨みを買いやすい)余所者の墓地であったことが、処刑場にされた背景だったのかもしれません。


 
ところどころには上画像のようなガラスケースが設置されており、中には衣服が無造作に収められていました。言わずもがな収容者の衣服なのでしょう。本格的な遺骨発掘が一段落しているはずの今日でも、私が実際に見つけたように、骨が地表に現れるらしく、ガラスケースの上には、こうして見つかった骨が載せられていました。下顎の骨が見えますね。


 
こちらのガラスケースの中には、四肢と思しき数十センチ長の骨がたくさん収められています。


 
敷地の外縁部は緑の回廊となっており、並木の間から水郷地帯の長閑な景色が覗けるのですが、今からわずか40年にも満たない過去に、今自分がいる場所で想像を絶する凄惨な光景が展開されていたのですから、そう遠くない当時の様子を想像しているうちに気が非常に重くなり、目の前に伸びる木々の緑や田園風景ですらも、実はすべてに血塗られた暗い過去があるのではないかと疑い深くなって、虚実がすっかり判別できなくなってしまいました。いや、単に歩き疲れただけなのかもしれない…。この回廊にはベンチが設置されているので、そこに腰かけて休憩がてら、オーディオガイドに収録されている体験記のうち、順路と関係しない「生存者の証言」をじっくり聞きます。
ヘッドホンを装着していますので、機器から送られる音声しか聞こえないはずなのですが、どうやら私の背後からも子供の声が聞こえてくる。まさか処刑された少年の亡霊か、などとビクビク怯えながら後ろを振り返ったところ、金網越しに二人の兄弟が物乞いをしていました。金網のすぐそばに高床式の粗末な民家が建てられており、そこに住む家族が、目の前を通る見学客に対して手当たり次第に声をかけ、金網の隙間から手を伸ばしていたのでした。どんなところにも人の生活がある、腹も減りゃ金も欲しい、それが現実ってことですね。もしポル・ポト時代だったら、金網の向こう側から手を伸ばすこの兄弟だって、残酷な目に遭っていたかもしれません。落ち着いた世の中になって良かったじゃないですか。そう自分に言い聞かせて、鬱陶しい物乞いを無視し続けたのでした。


 
処刑所跡には広い耕作地が隣接していました。また足元ではニワトリのつがいが呑気に散歩していました。繰り返しになりますが、凄惨な地獄だったとは想像できないほど、実に長閑な田舎なんです。そういえば、以前私が旅をしたポーランドのアウシュビッツ収容所跡(現オシフィエンチム)も、まるで水墨画のようなとても牧歌的な農村だったなぁ。長閑な環境と狂気の世界は、実は背中合わせだったりして…。


●慰霊塔
 
順路を反時計まわりに巡った一番最後に、敷地の中央に聳える慰霊塔を訪ねます。


 
高い塔の内部には、ここで発掘された遺体の頭蓋骨が、幾層にもわたって納骨されていました。遺骨は性別および年齢別に区分されているのですが、その区分を見るだけでも、子供から老人まで老若男女を問わず、ありとあらゆる人々が情け容赦なく犠牲になったことがわかります。遺骨のみならず、収容された人々の衣類も収められていました。左(上)画像の衣類は、目隠しおよび子供の衣服なんだそうです。


 
左(上)画像は15歳から20歳までの若い女性の頭蓋骨、右(下)画像は40歳から60歳までの女性の頭蓋骨。不自然な穴があいていたり、罅や陥没が残っている骨があるのですが、それらはどうやら処刑の痕らしい。


 
処刑の道具も展示されていました。画像をご覧になれば、どのように使われたかは一目瞭然。それにしても、ずいぶんプリミティヴだこと。一人二人ならともかく、何人も殺害するにはかなり非合理的ですし、一撃で息の根を止めるには、それなりの技術が必要だったでしょう。当たり所を外したら、悶絶させちゃうだけですもん。となれば、ここに弔われている犠牲者たちは、死の恐怖はもちろん、死に至るまでも筆舌に尽くしがたい苦しみを味わったのかもしれません。



最後にミュージアムへ立ち寄り、クメール・ルージュの施政に関する各種資料や、当時の処刑所内の様子を描いたイラストを見学です(館内は撮影禁止でしたので、展示資料は写しておりません)。

さてこのチュンエクの処刑所は、プノンペン市街南部にある「S21(トゥール・スレン)」という政治犯収容所の付属施設であり、収容生活の最後且つ人生最後となる時に、無理矢理連れて来させられた片道切符の終着点でありました。それならば収容所はどのようなものであったのか、収容生活はいかなるものであったのか。当時の様子を知るべく、ゲートの前で待たせておいたバイクタクシーに再び跨って、今度は「S21(トゥール・スレン)」へと向かいました。

次回に続く。
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