※今回の記事にも温泉は登場しません。あしからず。次々回で国内の温泉ネタに戻る予定です。
前回記事までは、台湾を南北に貫く鉄道の西部幹線でも、竹南から彰化の間を台湾海峡に沿って走る海線を取り上げましたが、今回記事からは同区間を山間部に入って走る山線、しかも既に廃止されて列車が走ることのない旧山線を取り上げます。既にネットはもちろん観光ガイドの書籍などでも紹介されているのですが、旧山線はレトロな景色を楽しめる観光地として注目されており、週末になれば多くの観光客で賑わうんだとか。そのわりには公共交通機関でのアクセスがあまり良くないので、私はレンタカーで現地へ向かうことにしました。
まずは歴史ある煉瓦積みアーチ橋の跡が芸術的な美観を生み出している「龍騰断橋」から。
いつも起承転結の順で画像や文章を組み立てている拙ブログにしては珍しく、今回はいきなり結論から紹介しましょう。
これが龍騰断橋の全容です。龍騰だなんて、とても縁起の良さそうな地名ですが、元々は魚藤坪断橋という田舎っぽい名称で呼ばれていたんだとか。ご覧のように煉瓦を積んで造られた連続アーチ橋ですが、いまは橋脚部分が残っているばかりで、橋としては全く機能していません。断橋という名の通り、崩れ落ちて寸断されてしまった橋なのですが、なぜ崩れ落ちたのかといえば、大きな地震に遭ったからです。
この橋は台湾総督府の手によって1905年(明治38年)に着工され、翌1906年に竣工しました。全長200mで、川から50mの高さがあり、橋の両端は煉瓦積みのアーチ橋ですが、谷を跨ぐ中央部はデッキトラス鉄橋が架けられていたんだそうです。建設された時期は、日本史的にはちょうど日露戦争の時期に当たりますが、本国では戦費調達に窮して巨額の国債を発行し、戦争に勝っても賠償を受け取れなかったというお寒い台所事情だったにもかかわらず、たった1年という短期間でこの煉瓦橋を竣工させたのですから、当時の台湾にとってこの架橋は非常に重要な事業だったことが窺えます。竣工の2年後にあたる1908年にこの橋梁区間を含めた三義〜豊原間の鉄道が開通し、これによって台湾を南北に縦貫する鉄道が完成したわけですが、1935年(昭和10年)に発生した新竹台中地震により、この橋は無残にも崩壊しちゃいます。当時の台湾物流の大動脈ですから早急な復旧が求められたのですが、被害が甚大であるため同じ橋での復旧は難しいと判断され、この橋は崩れ落ちたまま放置され、西側60mに新たな鉄橋が架けられました。
険しい地形を走るこの区間は開通から長年にわたって単線でしたが、それで輸送量が全然足らないために、まず1922年に竹南〜彰化間を海岸に沿ってバイパスする海線が開通します。そして1998年にはこの区間をトンネルでクリアする新しい山線が建設され、これによって縦貫線が完全複線化されて、用済みになった旧山線は廃止されることになりました。
断橋をいろんな角度から見上げてみました。傍に立っている案内板によればこの橋は「荷蘭式」つまりオランダ式という工法が採用されたんだとか。雨に濡れて黒ずんだ煉瓦は、橋が経てきた100年以上の歴史を物語っているようです。地面から拳を突き上げているような姿は、台湾北海岸の野柳(女王頭)を連想させます。橋がまだ崩れる前は、さぞ美しいアーチを描いていたのでしょうね。
煉瓦積みの鉄道用連続アーチ橋といえば、日本の群馬県にある旧信越本線の碓氷第三橋梁(↑画像)を思い浮かべる方も多いでしょうけど、たしかにこの龍騰断橋と碓氷第三橋梁はなんとなく似ているような気がします。
台北側の橋詰に登ることができます。実際に断橋の端に立って、かつて架橋されていた谷(台中方向)を展望した景色が上の画像です。
この日はあいにくの天気でしたが、左右の煉瓦塀を辿って谷の上空に線を描けば、かつての線路が景色の中で浮かび上がってくるようでした。
橋詰の展望台から視線を右(西)の方へ移すと、谷の上に一本の鉄橋が架かっていますが、これは1998年に廃止された単線時代の山線の線路です。
鉄橋の下には駐車場が用意されており、一帯は公園として整備されています。台湾としてはこの龍騰断橋を世界遺産に登録しようと目指しているんだそうですが、皆様ご存知のように台湾はユネスコに加盟できていませんから、その目標達成にはまだ相当の年月を要しそうです。でもユネスコなんかに認められなくても、橋の美しさは台湾中の人を惹きつけ、週末などには屋台のような店舗も出るほど賑わうようです。尤も、冷たい雨が降っていた平日のこの日は、どの店も完全閉店状態で、観光客の姿も見当たりませんでした。
そういえば旧信越本線の「碓氷第三橋梁」も世界遺産登録を目指しているんでしたっけ。それならば姉妹提携でもしたら良いのになぁ。
川を渡って反対側にも行ってみることにしました。1998年まで列車が走っていたガーダー橋が頭上高く谷を跨いでいます。橋脚のスタイルといい、ガーダーの形状といい、日本の国鉄路線そっくりですね。
対岸にも煉瓦積みの橋脚跡が残っているのですが、美しい姿を保っている台北側と違ってこちら側は山の緑に覆われつつあり、まるでタイのアユタヤ遺跡群にある木に呑み込まれた仏像のような状態になっていました。この橋跡の上にも登ってみたのですが、南方(台中側)の線路敷はなんとなく築堤だとわかるものの、かつてここに列車が走っていたとは思えないほど深い藪と化していました。
今度は1998年に廃止された鉄橋の上へ登ってみます。さすがに鉄橋の真上は立入禁止ですが、その手前までなら入ることができます。ゲートの近くには「魚藤坪」と書かれた小さなプレートが建植されていました。
ゲートの隙間にカメラを突っ込んで、鉄橋上の線路を撮ってみました。とても廃線とは思えないほど線路が立派なまま保たれており、いまにも列車が走ってきそうです。実際に廃止された後の2010年には観光鉄道として一時的に復活しており、この線路をSL牽引の客車列車が走行したんだそうです。上述した「魚藤坪」には、観光鉄道として復活したときに仮設の駅(ホーム)が設けられたんだそうです。
鉄橋から映画「スタンド・バイ・ミー」の少年になった気分で、北のほうへ向かって線路を歩きました。途中で左から行き止まりの側線が合流してくるのですが、ここは「167キロ信号所」(167公里號誌站)。この信号所から数百メートルだけ複線になっており、南北へ進む列車がここで行き違っていました。
ポイントマシーンは日本の京三製作所製。
周囲は山間部に水田が広がる田園地帯。晴れていれば散歩したくなるような長閑な景色です。
廃止された線路の脇には飲食店が営業していました。旧山線は既に役目を終えた交通インフラですが、観光地として立派に第二の道を歩んでいます。
次回記事では同じ旧山線の廃止区間でも本格的な観光地として変貌を遂げた勝興駅を取り上げます。
苗栗県三義郷龍騰村
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前回記事までは、台湾を南北に貫く鉄道の西部幹線でも、竹南から彰化の間を台湾海峡に沿って走る海線を取り上げましたが、今回記事からは同区間を山間部に入って走る山線、しかも既に廃止されて列車が走ることのない旧山線を取り上げます。既にネットはもちろん観光ガイドの書籍などでも紹介されているのですが、旧山線はレトロな景色を楽しめる観光地として注目されており、週末になれば多くの観光客で賑わうんだとか。そのわりには公共交通機関でのアクセスがあまり良くないので、私はレンタカーで現地へ向かうことにしました。
まずは歴史ある煉瓦積みアーチ橋の跡が芸術的な美観を生み出している「龍騰断橋」から。
いつも起承転結の順で画像や文章を組み立てている拙ブログにしては珍しく、今回はいきなり結論から紹介しましょう。
これが龍騰断橋の全容です。龍騰だなんて、とても縁起の良さそうな地名ですが、元々は魚藤坪断橋という田舎っぽい名称で呼ばれていたんだとか。ご覧のように煉瓦を積んで造られた連続アーチ橋ですが、いまは橋脚部分が残っているばかりで、橋としては全く機能していません。断橋という名の通り、崩れ落ちて寸断されてしまった橋なのですが、なぜ崩れ落ちたのかといえば、大きな地震に遭ったからです。
この橋は台湾総督府の手によって1905年(明治38年)に着工され、翌1906年に竣工しました。全長200mで、川から50mの高さがあり、橋の両端は煉瓦積みのアーチ橋ですが、谷を跨ぐ中央部はデッキトラス鉄橋が架けられていたんだそうです。建設された時期は、日本史的にはちょうど日露戦争の時期に当たりますが、本国では戦費調達に窮して巨額の国債を発行し、戦争に勝っても賠償を受け取れなかったというお寒い台所事情だったにもかかわらず、たった1年という短期間でこの煉瓦橋を竣工させたのですから、当時の台湾にとってこの架橋は非常に重要な事業だったことが窺えます。竣工の2年後にあたる1908年にこの橋梁区間を含めた三義〜豊原間の鉄道が開通し、これによって台湾を南北に縦貫する鉄道が完成したわけですが、1935年(昭和10年)に発生した新竹台中地震により、この橋は無残にも崩壊しちゃいます。当時の台湾物流の大動脈ですから早急な復旧が求められたのですが、被害が甚大であるため同じ橋での復旧は難しいと判断され、この橋は崩れ落ちたまま放置され、西側60mに新たな鉄橋が架けられました。
険しい地形を走るこの区間は開通から長年にわたって単線でしたが、それで輸送量が全然足らないために、まず1922年に竹南〜彰化間を海岸に沿ってバイパスする海線が開通します。そして1998年にはこの区間をトンネルでクリアする新しい山線が建設され、これによって縦貫線が完全複線化されて、用済みになった旧山線は廃止されることになりました。
断橋をいろんな角度から見上げてみました。傍に立っている案内板によればこの橋は「荷蘭式」つまりオランダ式という工法が採用されたんだとか。雨に濡れて黒ずんだ煉瓦は、橋が経てきた100年以上の歴史を物語っているようです。地面から拳を突き上げているような姿は、台湾北海岸の野柳(女王頭)を連想させます。橋がまだ崩れる前は、さぞ美しいアーチを描いていたのでしょうね。
煉瓦積みの鉄道用連続アーチ橋といえば、日本の群馬県にある旧信越本線の碓氷第三橋梁(↑画像)を思い浮かべる方も多いでしょうけど、たしかにこの龍騰断橋と碓氷第三橋梁はなんとなく似ているような気がします。
台北側の橋詰に登ることができます。実際に断橋の端に立って、かつて架橋されていた谷(台中方向)を展望した景色が上の画像です。
この日はあいにくの天気でしたが、左右の煉瓦塀を辿って谷の上空に線を描けば、かつての線路が景色の中で浮かび上がってくるようでした。
橋詰の展望台から視線を右(西)の方へ移すと、谷の上に一本の鉄橋が架かっていますが、これは1998年に廃止された単線時代の山線の線路です。
鉄橋の下には駐車場が用意されており、一帯は公園として整備されています。台湾としてはこの龍騰断橋を世界遺産に登録しようと目指しているんだそうですが、皆様ご存知のように台湾はユネスコに加盟できていませんから、その目標達成にはまだ相当の年月を要しそうです。でもユネスコなんかに認められなくても、橋の美しさは台湾中の人を惹きつけ、週末などには屋台のような店舗も出るほど賑わうようです。尤も、冷たい雨が降っていた平日のこの日は、どの店も完全閉店状態で、観光客の姿も見当たりませんでした。
そういえば旧信越本線の「碓氷第三橋梁」も世界遺産登録を目指しているんでしたっけ。それならば姉妹提携でもしたら良いのになぁ。
川を渡って反対側にも行ってみることにしました。1998年まで列車が走っていたガーダー橋が頭上高く谷を跨いでいます。橋脚のスタイルといい、ガーダーの形状といい、日本の国鉄路線そっくりですね。
対岸にも煉瓦積みの橋脚跡が残っているのですが、美しい姿を保っている台北側と違ってこちら側は山の緑に覆われつつあり、まるでタイのアユタヤ遺跡群にある木に呑み込まれた仏像のような状態になっていました。この橋跡の上にも登ってみたのですが、南方(台中側)の線路敷はなんとなく築堤だとわかるものの、かつてここに列車が走っていたとは思えないほど深い藪と化していました。
今度は1998年に廃止された鉄橋の上へ登ってみます。さすがに鉄橋の真上は立入禁止ですが、その手前までなら入ることができます。ゲートの近くには「魚藤坪」と書かれた小さなプレートが建植されていました。
ゲートの隙間にカメラを突っ込んで、鉄橋上の線路を撮ってみました。とても廃線とは思えないほど線路が立派なまま保たれており、いまにも列車が走ってきそうです。実際に廃止された後の2010年には観光鉄道として一時的に復活しており、この線路をSL牽引の客車列車が走行したんだそうです。上述した「魚藤坪」には、観光鉄道として復活したときに仮設の駅(ホーム)が設けられたんだそうです。
鉄橋から映画「スタンド・バイ・ミー」の少年になった気分で、北のほうへ向かって線路を歩きました。途中で左から行き止まりの側線が合流してくるのですが、ここは「167キロ信号所」(167公里號誌站)。この信号所から数百メートルだけ複線になっており、南北へ進む列車がここで行き違っていました。
ポイントマシーンは日本の京三製作所製。
周囲は山間部に水田が広がる田園地帯。晴れていれば散歩したくなるような長閑な景色です。
廃止された線路の脇には飲食店が営業していました。旧山線は既に役目を終えた交通インフラですが、観光地として立派に第二の道を歩んでいます。
次回記事では同じ旧山線の廃止区間でも本格的な観光地として変貌を遂げた勝興駅を取り上げます。
苗栗県三義郷龍騰村
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