※今回記事に温泉は登場しません。あしからず。
前回記事の続編です。
インドネシアの首都ジャカルタでは、日本のODAによってジャカルタ都市圏の鉄道整備が行われており、これに伴う形で東京のJRや民鉄・地下鉄で走っていた車両が、海を渡って当地で第二の人生ならぬ車生を送っています。ジャカルタで東京の電車が走っていることは、日本の鉄道ファンにはすっかりお馴染みの常識であり、南国で東京の電車が活躍する様を追いかけている熱心な鉄ちゃんもいらっしゃいますが、かく言う私も隠れ鉄ちゃんの端くれとして、ジャカルタで頑張る日本の電車に乗ってみたかったので、当地を訪れた際、実際に駅へ行ってみることにしました。
前回記事で述べましたように、ファタヒラ広場の「カフェ・バタビア」でちょっと気取ったランチを摂った後、そのまま歩いてコタ駅へとやってまいりました。1870年に開業した大変古い駅であり、ドーム状の駅舎からも長い歴史がもたらす風格が伝わってきますが、現在この駅から発着する長距離列車は極めて限られており、実質的にはジャカルタ都市圏の近郊へ向かう電車「KRLジャボタベック」のターミナルとなっているんだとか。東京で例えるならば、かつては長距離汽車の発着駅だったが運行形態の変化によって通勤電車ばかりになってしまった上野駅みたいですね。
「KRLジャボタベック」の路線網は年々整備され続けているらしいのですが、外国人観光客と縁がありそうな場所は通らないので、観光に活用できるかどうか微妙なところ。ジャカルタからボゴールへ向かう際には、ボゴール線の電車が便利ですが、路線図とガイドブックの両方をにらめっこしても、沿線には電車に乗って行きたくなるような場所が見当たりません。かと言ってボゴールまで往復する時間はない。そこで、ちょっとしたターミナルになっているマンガライ駅まで乗り、そこからはタクシーでホテルへ戻ることにしました。
駅には券売機と有人窓口の両方が設けられていたのですが、私はインドネシア語が読めないので、有人窓口に並んでマンガライまでのIC乗車券を購入。自動改札機にタッチして入場します。
いかにもターミナル駅らしい頭端式ホームには、東急8000系(左)とJR205系(右)が横並びで止まっていました。当地では赤と黄色のカッティングシートで彩られているんですね。
そもそも車高の低い客車列車が使っていたホームに、車高の高い電車が発着しているため、段差を解消するためステップが設置されていました。観光地の記念撮影場所にあるベンチ状のステップみたいですね。バリアフリーなんて概念は微塵も見られません。このステップに登って、東急8000系に乗り込んでみました。
車内は東急時代のままですが、シートのモケットが東急時代の茶色から鮮やかなブルーに交換されていました。天井・網棚・つり革支持棒をつなぐ金属部品が、ブーメランのような曲線を描く独特な形状をしていますが、これは初期の8000系や7200系で見られた意匠。この電車は主に東横線で活躍していた車両でしょう。
この電車が渋谷・自由が丘・田園調布・日吉、そして横浜といった街を走っていた頃、ドア上には東横線や田園都市線などといった東急の路線図が掲示されていたはずですが、現在は「KRLジャボタベック」の路線図に取って替わられていました。一方、車端の妻面には「形式デハ8100 自重35.4瓲 定員170人」「全 14-8 長津田工」と印字されたプレートが取り付けられたままになっており、この車両がかつて東急の長津田工場でメンテナンスを受けていた証がいまだに残っていました。
さて私がこの東急8000系に乗車した際、こちらの乗客はまばらなのに、隣のホームに止まっている列車には次々に客が乗り込んでいるではありませんか。どうやらこちらは次発で、お隣が先発の様子。ということで、東急8000系から一旦下車し、隣のホームの電車に乗り直すことに。
先発列車のJR205系「ブカシ」行。最後尾は女性専用車両となっているのですが、日本のような痴漢対策というよりも宗教上の理由のようです。車体側面には「クハ204-87」の文字と、黄色・橙色・茶色の3色帯が残っていました。ということは、この車両はかつてJR南武線を走っていたのでしょう。厳密に言えば、まず山手線に新製投入されて都心をグルグル回った後、南武線へ都落ちし、最終的には海を渡ってジャカルタへとやってきたものと推測されます。若い頃からグルグル回され、薹が立ったら地方へ落とされ、挙げ句の果てにはジャガタラの地に飛ばされるという、明治大正期のからゆきさんを地でいくようなこの車両の流転の運命には、戦前の女衒もビックリすることでしょう。
窓に色付きの遮光フィルムが貼られること以外、車内はJR時代とほとんど同じ。窓上や中吊りの広告もしっかりと掲出されていました。昼間だからか、車内に混雑は見られず至って落ち着いており、みなさんお行儀よく乗車していました。
ドアが閉まる時のプシューッというエア音も、起動時のモーター音も、JRで走っていたころと全く同じ。まさか異国の地でこうした音を耳にするとは思いませんでした。でもダイヤの問題なのか、ちっともスピードを出さず、せいぜい40km/hがいいところ。高架の線路をチンタラ走りながら、各駅に止まって旅客を乗り降りさせています。車窓に見える街並みは貧乏長屋ばかり。私が宿泊したショッピングモールの"fX"には小金持ちの中産階級が集まっていましたが、線路沿いは経済成長の恩恵にいまだ浴しきっていない人が多いのでしょう。発展途上国ではどこでも同じですが、線路沿いにはスラムやそれに近い街並みが広がりやすい傾向にありますね。貧富の差の大きさを目の当たりにした思いです。
途中、前回記事で取り上げた独立記念塔を右手に見ながら、電車はゆっくりと南下してゆきます。
コタから約20分の乗車でマンガライ駅に到着しました。隣の線路には、かつて地下鉄千代田線で走っていた旧東京メトロ6000系が停車中。小田急沿線に暮らす私にとって、小田急と相互乗り入れをしている千代田線は大変身近な存在ですが、先頭車両のおでこに記された6101という番号を見て、はたと気づきました。この6101という車両とそれに連なる10両1編成は、営団地下鉄時代に2次試作車と呼ばれていた1969年製の古参車両であり、寸法の問題で小田急線に乗り入れることができなかったちょっと特殊な編成でもあります。ジャカルタには2016年にやってきたばかりのようですが、既にかなり草臥れているので、当地で活躍できる期間は決して長くないでしょう。
マンガライ駅の別のホームに入ってきた列車です。こちらも私が乗ってきたブカシ行と同じくJR205系ですが、車端部には「宮ハエ」の3文字が残っていました。JRでは国鉄時代の電報略号、略して電略をいまだに使っていますが、「宮ハエ」とはそんな電略の一つであり、この3文字が意味しているのは、JR東日本大宮支社川越車両センターのこと。つまり、この車両は埼京線を走っていたのです。私の生まれ故郷である赤羽を毎日通過しながら、酔っ払いや痴漢などに耐えつつ、ギューギュー詰めの大混雑を毎日のように過ごしていたんですね。
このマンガライ駅には跨線橋やアンダーパスがないため、ホームから線路へ直接下りて、線路をまたいで駅舎へ向かいました。そんなアバウトさが実に東南アジアっぽくて良いですね。帰路も電車で帰ろうと思ったのですが、窓口には大行列ができており、チケットを購入するのが面倒になったので、当初の計画通り、駅から徒歩10分ほどのところにあるショッピングモールからタクシーに乗り込んでホテルへ戻ってしまいました。
今回は2駅間を僅か20分乗車しただけですから、東急・JR・東京メトロという3社の3車種にしか出会うことはできませんでしたが、当地ではこの他にも東京で活躍していた多様な通勤電車が走っているんだとか。ジャカルタの鉄道事情に熱をあげる日本の鉄ちゃんの気持ちも理解できる気がします。多くの東京の通勤電車がジャカルタの地へ渡るきっかけとなったのは、ジャカルタと姉妹都市提携をしている東京都が、アジア通貨危機の際、当地の交通事情を助けるべく、都営地下鉄のお古を当地に提供したことに始まるんだそうですが、線路幅1067mm(3フィート6インチ)、直流1500Vという規格条件を満たし、車両状態がよく、大量かつ安価で導入できる電車となれば、東京圏で放出される中古の通勤電車がもってこいなのでしょうね。でも現地では近いうちに中古鉄道車両の輸入が制限されるらしく、また、メンテナンスの問題なのか現地へ渡った中古車両の多くが早いペースで廃車されているので、こうしてジャカルタの街を東京の電車が走る光景が見られるのも、意外と長くは続かないかもしれません。
さて私が持っているインドネシアの温泉ネタや旅行記は、全体の3分の1を消化し終えたところ。まだまだご紹介したい温泉が残っているのですが、ここで一旦小休止して、次回からは日本国内へ戻ります。そして来月(3月)の上旬か中旬を目処に、インドネシア温泉旅行記の続編を再開させていただきます。
前回記事の続編です。
インドネシアの首都ジャカルタでは、日本のODAによってジャカルタ都市圏の鉄道整備が行われており、これに伴う形で東京のJRや民鉄・地下鉄で走っていた車両が、海を渡って当地で第二の人生ならぬ車生を送っています。ジャカルタで東京の電車が走っていることは、日本の鉄道ファンにはすっかりお馴染みの常識であり、南国で東京の電車が活躍する様を追いかけている熱心な鉄ちゃんもいらっしゃいますが、かく言う私も隠れ鉄ちゃんの端くれとして、ジャカルタで頑張る日本の電車に乗ってみたかったので、当地を訪れた際、実際に駅へ行ってみることにしました。
前回記事で述べましたように、ファタヒラ広場の「カフェ・バタビア」でちょっと気取ったランチを摂った後、そのまま歩いてコタ駅へとやってまいりました。1870年に開業した大変古い駅であり、ドーム状の駅舎からも長い歴史がもたらす風格が伝わってきますが、現在この駅から発着する長距離列車は極めて限られており、実質的にはジャカルタ都市圏の近郊へ向かう電車「KRLジャボタベック」のターミナルとなっているんだとか。東京で例えるならば、かつては長距離汽車の発着駅だったが運行形態の変化によって通勤電車ばかりになってしまった上野駅みたいですね。
「KRLジャボタベック」の路線網は年々整備され続けているらしいのですが、外国人観光客と縁がありそうな場所は通らないので、観光に活用できるかどうか微妙なところ。ジャカルタからボゴールへ向かう際には、ボゴール線の電車が便利ですが、路線図とガイドブックの両方をにらめっこしても、沿線には電車に乗って行きたくなるような場所が見当たりません。かと言ってボゴールまで往復する時間はない。そこで、ちょっとしたターミナルになっているマンガライ駅まで乗り、そこからはタクシーでホテルへ戻ることにしました。
駅には券売機と有人窓口の両方が設けられていたのですが、私はインドネシア語が読めないので、有人窓口に並んでマンガライまでのIC乗車券を購入。自動改札機にタッチして入場します。
いかにもターミナル駅らしい頭端式ホームには、東急8000系(左)とJR205系(右)が横並びで止まっていました。当地では赤と黄色のカッティングシートで彩られているんですね。
そもそも車高の低い客車列車が使っていたホームに、車高の高い電車が発着しているため、段差を解消するためステップが設置されていました。観光地の記念撮影場所にあるベンチ状のステップみたいですね。バリアフリーなんて概念は微塵も見られません。このステップに登って、東急8000系に乗り込んでみました。
車内は東急時代のままですが、シートのモケットが東急時代の茶色から鮮やかなブルーに交換されていました。天井・網棚・つり革支持棒をつなぐ金属部品が、ブーメランのような曲線を描く独特な形状をしていますが、これは初期の8000系や7200系で見られた意匠。この電車は主に東横線で活躍していた車両でしょう。
この電車が渋谷・自由が丘・田園調布・日吉、そして横浜といった街を走っていた頃、ドア上には東横線や田園都市線などといった東急の路線図が掲示されていたはずですが、現在は「KRLジャボタベック」の路線図に取って替わられていました。一方、車端の妻面には「形式デハ8100 自重35.4瓲 定員170人」「全 14-8 長津田工」と印字されたプレートが取り付けられたままになっており、この車両がかつて東急の長津田工場でメンテナンスを受けていた証がいまだに残っていました。
さて私がこの東急8000系に乗車した際、こちらの乗客はまばらなのに、隣のホームに止まっている列車には次々に客が乗り込んでいるではありませんか。どうやらこちらは次発で、お隣が先発の様子。ということで、東急8000系から一旦下車し、隣のホームの電車に乗り直すことに。
先発列車のJR205系「ブカシ」行。最後尾は女性専用車両となっているのですが、日本のような痴漢対策というよりも宗教上の理由のようです。車体側面には「クハ204-87」の文字と、黄色・橙色・茶色の3色帯が残っていました。ということは、この車両はかつてJR南武線を走っていたのでしょう。厳密に言えば、まず山手線に新製投入されて都心をグルグル回った後、南武線へ都落ちし、最終的には海を渡ってジャカルタへとやってきたものと推測されます。若い頃からグルグル回され、薹が立ったら地方へ落とされ、挙げ句の果てにはジャガタラの地に飛ばされるという、明治大正期のからゆきさんを地でいくようなこの車両の流転の運命には、戦前の女衒もビックリすることでしょう。
窓に色付きの遮光フィルムが貼られること以外、車内はJR時代とほとんど同じ。窓上や中吊りの広告もしっかりと掲出されていました。昼間だからか、車内に混雑は見られず至って落ち着いており、みなさんお行儀よく乗車していました。
ドアが閉まる時のプシューッというエア音も、起動時のモーター音も、JRで走っていたころと全く同じ。まさか異国の地でこうした音を耳にするとは思いませんでした。でもダイヤの問題なのか、ちっともスピードを出さず、せいぜい40km/hがいいところ。高架の線路をチンタラ走りながら、各駅に止まって旅客を乗り降りさせています。車窓に見える街並みは貧乏長屋ばかり。私が宿泊したショッピングモールの"fX"には小金持ちの中産階級が集まっていましたが、線路沿いは経済成長の恩恵にいまだ浴しきっていない人が多いのでしょう。発展途上国ではどこでも同じですが、線路沿いにはスラムやそれに近い街並みが広がりやすい傾向にありますね。貧富の差の大きさを目の当たりにした思いです。
途中、前回記事で取り上げた独立記念塔を右手に見ながら、電車はゆっくりと南下してゆきます。
コタから約20分の乗車でマンガライ駅に到着しました。隣の線路には、かつて地下鉄千代田線で走っていた旧東京メトロ6000系が停車中。小田急沿線に暮らす私にとって、小田急と相互乗り入れをしている千代田線は大変身近な存在ですが、先頭車両のおでこに記された6101という番号を見て、はたと気づきました。この6101という車両とそれに連なる10両1編成は、営団地下鉄時代に2次試作車と呼ばれていた1969年製の古参車両であり、寸法の問題で小田急線に乗り入れることができなかったちょっと特殊な編成でもあります。ジャカルタには2016年にやってきたばかりのようですが、既にかなり草臥れているので、当地で活躍できる期間は決して長くないでしょう。
マンガライ駅の別のホームに入ってきた列車です。こちらも私が乗ってきたブカシ行と同じくJR205系ですが、車端部には「宮ハエ」の3文字が残っていました。JRでは国鉄時代の電報略号、略して電略をいまだに使っていますが、「宮ハエ」とはそんな電略の一つであり、この3文字が意味しているのは、JR東日本大宮支社川越車両センターのこと。つまり、この車両は埼京線を走っていたのです。私の生まれ故郷である赤羽を毎日通過しながら、酔っ払いや痴漢などに耐えつつ、ギューギュー詰めの大混雑を毎日のように過ごしていたんですね。
このマンガライ駅には跨線橋やアンダーパスがないため、ホームから線路へ直接下りて、線路をまたいで駅舎へ向かいました。そんなアバウトさが実に東南アジアっぽくて良いですね。帰路も電車で帰ろうと思ったのですが、窓口には大行列ができており、チケットを購入するのが面倒になったので、当初の計画通り、駅から徒歩10分ほどのところにあるショッピングモールからタクシーに乗り込んでホテルへ戻ってしまいました。
今回は2駅間を僅か20分乗車しただけですから、東急・JR・東京メトロという3社の3車種にしか出会うことはできませんでしたが、当地ではこの他にも東京で活躍していた多様な通勤電車が走っているんだとか。ジャカルタの鉄道事情に熱をあげる日本の鉄ちゃんの気持ちも理解できる気がします。多くの東京の通勤電車がジャカルタの地へ渡るきっかけとなったのは、ジャカルタと姉妹都市提携をしている東京都が、アジア通貨危機の際、当地の交通事情を助けるべく、都営地下鉄のお古を当地に提供したことに始まるんだそうですが、線路幅1067mm(3フィート6インチ)、直流1500Vという規格条件を満たし、車両状態がよく、大量かつ安価で導入できる電車となれば、東京圏で放出される中古の通勤電車がもってこいなのでしょうね。でも現地では近いうちに中古鉄道車両の輸入が制限されるらしく、また、メンテナンスの問題なのか現地へ渡った中古車両の多くが早いペースで廃車されているので、こうしてジャカルタの街を東京の電車が走る光景が見られるのも、意外と長くは続かないかもしれません。
さて私が持っているインドネシアの温泉ネタや旅行記は、全体の3分の1を消化し終えたところ。まだまだご紹介したい温泉が残っているのですが、ここで一旦小休止して、次回からは日本国内へ戻ります。そして来月(3月)の上旬か中旬を目処に、インドネシア温泉旅行記の続編を再開させていただきます。