紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

アメリカ大旅行(北米の旅・その2)

2004-11-19 16:27:53 | 8・山と旅の思い出
バンクーバーを後にしてから、ロスアンゼルスの空港で、日本からやって来た友人の良流娯さんと娘の知夏ちゃんと待ち合わせした。それからは、最後のニューヨークまでずっと一緒に旅をした。
初めてのロス空港は、想像以上に広く、会うのにも一苦労だった。(写真:やっと会えて、ほっとしているところ。)

その旅では、飛行機、アムトラック(列車)、バス、レンタカー、いろんな乗り物に乗り、西から東まで大移動をした。
ハードな旅だったので、途中、私も子ども達も交代で熱を出してダウンし、寝込んだこともあった。このバスに乗っている時は、熱があったのに、冷房が故障したまま炎天下を走り続けて、もうフラフラだった。

アムトラックも、ロス~セントルイスまでの2泊3日、フロリダ~ワシントンまでの1泊2日、と長距離便に2回乗った。
子ども達もいるので、寝台車に乗ったが、これが私とアムトラックとの出会い。

その旅の後も、アムトラックは好きでよく乗ったが、寝台車などという高級なのに乗ったのはこの時が最後。あとはコーチという、ただの背が倒せるふつうの座席であった。

次回は、アムトラックに乗って行った、大好きな巨木の森を訪れた時のことを書こうと思う。


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パパさんの家再訪(北米の旅・その1)

2004-11-18 06:12:06 | 8・山と旅の思い出
パパさんの取材にいった6年後。
いつか子どもたちも一緒に旅を楽しめるようになったら、パパさん、ママさんに会いに連れて行こうとずっと考えていた。

息子小5、娘小3の夏休み。その頃になると、本の出版も順調に行くようになり、「神さまの木」の取材のために、カリフォルニアのセコイアの森に行くのをメインに、35日間アラスカからフロリダまで大旅行をした。

最初にアラスカに行った。夫がアラスカのキーナイという所に夏の間仕事でいっていたので、ちょっと立ち寄るためだった。アンカレッジから、小さな飛行機で1時間くらいの所だったが、何もないところなので、1日滞在しただけでアンカレッジにもどった。
(写真は湿地でムースを見ているところ)

アンカレッジ滞在中、子どもと3人で氷河クルーズに参加した。
丸々1日、アラスカの氷が浮かぶ海を航海して、アザラシだのラッコだのが氷の上に寝そべっているのを見るだけなのだが、氷河が海に崩れ落ちるのを見たり、なかなか楽しい体験だった。

その後、バンクーバーに行き、3日間パパさんの家でお世話になった。驚いたことに、その時には、パパさんの家には、友だちのカナダ人、ビルさんが一緒に住んでいた。ビルさんが大工仕事や力仕事をして、パパさんが料理をし、ママさんは楽しいおしゃべりをし、3人でうまくやりくりしながら、暮らしていた。
その後、だいぶたってから、ビルさんは癌を患い、亡くなられたそうである。合掌。

(一番上の写真は、ビルさんも一緒にテーブルを囲んでいるところ)

次回は、その時の大旅行の話し。

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7・何が書きたいか

2004-11-17 06:36:28 | 2・仕事の周辺
滞在も半分が過ぎた頃、急に疑問に思い始めた。私は一体パパさんの何にひかれているのかと。おもしろくて波乱に富んだ過去だろうか。
すぐに、違うと思った。パパさんの過去ではなくて、今の生き方にひかれているのだと気がついた。
パパさんは毎日、休む間もなく庭仕事をしたり、畑仕事をしたり、とれた食べ物を大事にして保存食を作ったりしていた。庭にあるゆうがおの実はうすくむいて干し、干瓢も手作りしていた。それを煮て一緒にのり巻きを作った。
パパさんは、一粒の麦を大事にするというか、生活自体に、哲学があるような人だった。

私はそれに気づくと、テープを片づけることにした。そして、話しを聞くかわりに、一緒に畑仕事を手伝ったり、果物をもいだり、買い物にいったり、パパさんと同じように生活してみた。
ふつうの暮らしをすることで、物語の方向が見えてきた。初めて書けそうだと思った。

カナダにいった4年後に「パパさんの庭」は刊行され、ラッキーなことに、その年の野間児童文芸賞を受賞。それによって、ずっと本を書いていける見込みができた。(カナダ取材旅行の話しはこれでおしまい。)

(写真は6年後。息子と娘も一緒にパパさんの家を訪れた時の)
★カナダ取材旅行 


6・パパさん、ママさんの家で

2004-11-16 08:11:06 | 2・仕事の周辺
私は、小型のテープレコーダーを買い、テープを何本ももって、意気込んでカナダにいった。とにかく、前の年以上に、あちこちに迷惑をかけ、絶対に失敗はできない状況に追い込まれていた。

いってみて、最初に驚いたのは、7年前に行った時と、パパさんたちの生活が判で押したように、同じだったことだった。朝起きた時から、夜寝るまで。ほんとうに何一つ変わっていない。

そこで生活をしながら、私は1人でバンクーバーの町に出かけて、いろいろ見て回った。物語に出てくるスタンレーパークに行ったり、グラウス山に行ったり。
パパさん、ママさんと一緒に行ったのは、博覧会やお墓参り。

そして、合間には、パパさんが生まれてから、それまでの話しを聞いて、せっせとテープにとった。やはり、思っていた以上に波乱に富んだ人生を歩いてきているのだった。

(写真:ママさんのお母さんのお墓参りにいった時の。カナダ生まれの二世のママさんは、考え方も生活習慣も、カナダの人だった)

★カナダ取材旅行 

5・カナダへ

2004-11-15 06:52:17 | 2・仕事の周辺
久々の1人旅であった。
娘と息子は、私が出かけるのを、留守番にきてくれていた父と一緒に、窓から見送ってくれた。ワンワンと泣きながら。
5歳だった息子が、泣きながらいった言葉は
「気をつけて行ってくるんだよ。」
予想外の言葉に、驚いた。その言葉が、「パパさんの庭」を書く上で、核になったと思う。

そして、1人で海外に出かけるというのが、こんなにも羽がはえたように、身軽になるなんて、それも予想外のこと。ふだん、あたり前のように、子どもたちと一緒に過ごしていたが、子どもというのは、すごい大荷物なんだと思った。よく考えると、毎日保育園の送り迎えしたり、会社へ行ったり、待ったなしで食事のしたくをしたり、夜は本を書いたり・・、目が回るような日々だった。そういうものいっさいから開放された10日間であった。

(写真:パパさんの裏庭の洋梨の木。パパさんはよくこれを煮て、保存していた)

★カナダ取材旅行 

4・援助の手

2004-11-14 09:07:38 | 2・仕事の周辺
1人で行くことはできないか。というのが次に考えたことだった。
しかし、この計画は、4歳と5歳の子どものめんどうを、10日間みてくれる人がいないと、なりたたない。それについては、
「もう一体何を考えているのよ。」
というのが大方の意見であった。
取材に、などといってみたって、誰も、私が本当に本を出版できるなど、信じていないのだ。実際に、本は1冊も出ていないし。

うーん、どうしよう。と思っていると、友人のK・M子さん、義理の姉が、どうしても行きたいなら、その間子どもたちをみていてあげるわよ。と援助の手をさしのべてくれて、計画は進みだした。
航空券の手配をしたところで、私の両親、夫が、その間半々でみてくれることになった。結局、Kさんと義姉にはお願いしないですんだが、でも、あの時そういってもらえたことには、本当に心から感謝している。それがなかったら、スタートしないまま終わったかもしれない話しだった。

(パパさんが近くてとれたブルーベリーでマッフィンを焼いているところ。いつでも、山ほど作って人にあげていた)

★カナダ取材旅行 

3・7年後

2004-11-13 06:17:47 | 2・仕事の周辺
それからの7年間。
私はメデタク結婚をしたり、子どもが生まれたり、せっせと原稿を書いたり、イギリスへの旅を決行したりしていた。

そして、イギリス旅行の翌年。
まだ本は一冊も日の目を浴びてなかった。が、もし本を書き続けていけるとしたら、ぜひ書いてみたいと思ったのが、パパさんのことだった。
第二次世界大戦を敵国のカナダで迎えて、激動の時代を生きてきた。そういうパパさん、ママさんの波乱に富んだ人生を書けないだろうかと考えた。

その時、パパさんは、85歳、ママさんは67歳。
7年前に行った時に、聞いた話しをメモしておけばよかったが、ただ、一緒に料理を作りながら、おしゃべりだけして終わってしまった。いつか、またいって話しを聞こうと考えたが、なにぶん85歳という高齢である。行くなら、早くしないと、話しをきけなくなるかもしれない。

というわけで、イギリスへ行った翌年、アルバイトを休んで、行けないかと考え始めた。10日間くらいなら、休めそうだった。しかし、いくらどう考えてみても、子ども連れは無理だった。前年のことを思い出すと、1人なら1日でできることが、子どもを連れていると1週間もかかるのだ。1歳生長したとはいっても、5日はかかるだろう。だとしたら、10日間いっていても、2日分のことしかできない。それでは時間が足りない。

(写真:パパさんの家の食物棚には、自分の庭でとれた果物のジャムや、シロップ煮、ピクルス、トマトソースなどの保存食がいつもたくさん並べられていた)

★カナダ取材旅行 

2・パパさん、ママさんとの出会い

2004-11-12 12:06:58 | 2・仕事の周辺
1976年の夏。私は、26歳で独身だった。

パパさんとママさんは、二人でバンクーバー郊外に住んでいた。友人のFさんと二人で、アメリカから、カナディアンロッキーを旅した後のことだ。
行きたいところは、全て行き尽くしていた。が、帰る日まで、あと1週間ほどあった。そこで思い出したのが、夫から(まだ結婚してなかったが)話しを聞いていた、パパさんのことだった。バンクーバーから帰るので、どこか安い宿を紹介してもらえないかと思い、パパさんの家に電話をした。

嬉しいことに、電話に出たママさんが、すぐに自分の家にいらっしゃいといってくれた。パパさんは耳が悪いので、電話には出られないのだ。そこで、貧乏旅行でもあったし、お言葉に甘えて泊めてもらうことにした。

行ってみると、ママさんは、1週間でも、何日でも泊まっていいといってくれた。が、朝ご飯は自分で作ること、夕飯はどこかですませてくること。少しの洗濯なら、洗濯機を使わずに、手で洗うこと。などなど、最初にいろいろな約束をさせられた。泊めてくれたのは、ベースメント(1階)で、居間や寝室、キッチン、お風呂場、すべて生活は2階でするので、1階は、広々としているけど、物置のような所であった。

2日ほどたつと、最初の約束は、すぐにどこかにいってしまい、パパさんは、毎晩、ごちそうを作ってくれた。パパさんはコックをしていたこともあって、和食、中華、洋食、なんでもプロの腕前なのだった。

バンクーバーにも、いろいろ見たいところはあった。が、バスで1時間近くかかるし、旅に疲れていたこともあって、ほとんどパパさんの家で過ごした。しじゅうお客さんが来る家なので、夕飯を作る手伝いなどした。そんな生活の中で、パパさん、ママさんは、いろいろな話しをしてくれた。
17歳で、松山からカナダに渡ってきた話し。戦争中収容所で暮らした話し。お手伝いのような仕事に始まって、ガーデナー、コック、いろいろな職業についた話し。日系二世のママさんと出会った話し・・etc。

そうして、私はパパさん、ママさんと仲良くなり、日本に帰ってきた。

(写真:パパさんの家のベースメントには、いつ何人のお客がきても料理が作れるように、巨大な冷凍庫が二つもあった)

★カナダ取材旅行 

1・本を書くためにふたたび海外へ

2004-11-11 16:19:08 | 2・仕事の周辺
子どもたちを連れて、イギリスへ行った翌年の夏。今から20年ほど前のことです。

最初の2作の本になる作業は、つまづきつつ進んでいた。けれど、2冊ともまだ本になるには時間がかかりそうだった。
その頃、本を書き始めたばかりだった私は、本になるのに、こんなに時間がかかるものだというのを、全く知らなかった。原稿をよりよいものにするために、何回も何回も直す。当時は、ワープロではなく、まだ手書きだったので、書き直すのにも時間がかかった。

ようやく、何回目かの書き直しで、編集の人からOKをもらうと、次は絵描きさんが絵を描いてくれる。子どもの本は、さし絵も多いし、それにも時間がかかる。あっという間に1年、もしかすると2年かかって、やっと本になるなんてこともザラである。

その間に、私は、三作目を考え始めていた。書きたい題材があった。カナダに住んでいる日系一世のパパさんのことである。最初に出会ったのが、26歳の時だった。教師をやめた後、アルバイトをしながら、資金を貯めて、最初にヨーロッパ、次に北アメリカを旅をした。
その途中で、寄らせてもらい、1週間家に泊めてもらったのである。

(写真はパパさんの家。ガーデナーの仕事もしていたパパさんの庭は、いつも歌壇にきれいに花がデザインされて植えられていた)

★カナダ取材旅行 

パパさんからの手紙

2004-11-10 06:45:18 | 15・心に残ること
カナダのバンクーバーに住む日系一世の栗田氏のことを、もうずっと長い間、パパさんと呼んでいる。
連れ合いは日系二世のママさん。
私が初めて北米を旅した時に、お世話になった方である。今から、27年くらい前のことだ。

その時に、パパさんはすでに80近いお年であった。
そのパパさんから手紙がきた。
104歳で、まだお元気だという。ママさんはおおよそ90歳で、なんとか二人で暮らしています。と書いてあった。

私をふくめ、どれほどの日本人が、パパさんの家でお世話になっただろうか。パパさんは、コックをしていたこともあって、料理の腕がたつし、ママさんは天真爛漫、いつも誰にでもウエルカムといってくれる。
単身、日本から仕事でバンクーバーにいっていたビジネスマンは、日本が恋しくなると、パパさんの作ってくれる日本食に舌づつみをうち、ママさんと話しをして、実家にでも帰ったようにホッとする。単身での長い外国暮らしは精神的につらいものだけど、みんなどれほど助かったことか。

そのパパさんをモデルに書いたのが、私の三作目の本「パパさんの庭」である。
パパさんを取材しにいった時のことを、書いてゆこうかと思っている。