昨夕は、20年ほど前の職場の仲間との恒例の飲み会に出席しました。
早くに案内もあり、場所も予約済みのようであったが、こういう時期でもあり、
自粛すべきかの考えが幹事さんを悩ましたかもしれません。
しかし、大震災の安否確認などをしている時に、岩手県盛岡で事業をする社長や、東京の社長が出張でたまたま八戸への道中で、この大震災に遭遇した、大変な目にあった・・などの情報があり、ならば直接話を聞く場として無理が無ければ「やろう!」ということで、昨夕10数名が内幸町近くのレストランでやりました。
毎度一人ずつ近況などの報告をしていましたが、この度は「その時」どうしていたか? それでどのように対処したか?など・・それにまつわる体験談に、改めてそれぞれの処し方と受け止め方などが分かって、極めて有意義な飲み会でありました。2~3をご紹介します。
盛岡で事業をしている社長氏は、仕事の関係で東京品川に来ていた。丁度JR品川駅ホームに降りた途端グラグラっときた。さあ、それからとるものも取りあえず、連絡をとったり帰らなければならない手配をしたり・・。しかし、電話は思うに任せず、メールがやっと繋がる程度。
余震の中、列車、飛行機などあちこち手配をしたが、全くお手上げ状態であった。たまたま、泊まるところがあったからよかったが、ホテルなども取りにくい状態だった。盛岡まで20万でどうか?などタクシーの話もあったりしたが、結局、4日目にようやく秋田行きの飛行機が取れた。
秋田から盛岡までどうする?タクシーは確保できるか?ガソリンが不足していて、タクシーはあっても行ってくれるか? しかし、知己を頼って何とか確保できた。
やっとの思いで、帰ってきたが、関連社員の3名が死亡され、うち一人は発見されたのは3日後だったとか。釜石では、それはもう異臭が強くて言葉にもならない。
津波の犠牲者は、バラバラ死体のようで、血液と歯型を取ってはいるようだが、歯型を保存している病院なども流されており遺体確認は困難を極めている。
この大震災で、昔の同級生や知り合いなどに巡り合い、改めてその人のつながりのありがたさを痛感したそうです。
もう一人の、東京から八戸に向かっていた社長氏は、あと5分ほどで八戸というところ、長いトンネルの中ほどで異常が発生した。先ず、電気が消えたり不安定になり急停車モードに入り停車した。
その途端! ぐらぐら~と、今まで体験したこともない揺れに遭遇した。
「いったいこれはなんだ!」 と思っているうちに、余震が頻繁にあり、車内放送もおぼつかなく、どうもどこかが陥没したとか、大津波が出ているとか・・・。
2時間ほどして、列車の非常電源は、後2時間ほどで切れますので、身の回りの物は手元においてください・・とアナウンスがあった。はたして、その時が来た。
漆黒の闇。それもそのはず、夜で、トンネルの中の新幹線内の停電。携帯電話の薄明かりが頼り。
しばらくして、救援隊が到着した。お水、お弁当、毛布が支給された。お弁当は「はやぶさ弁当」で、細長い形状だったようだが、暗がりの中、どこが開ける口か、この弁当はいったいどのような弁当か?初めて手にするお弁当を口にするまで、あれやこれや・・・。
冷たいお弁当を食べ朝を待つ。8時頃、トンネル内だから明かりはわからないが、車外に出て、歩いた。ほどなくトンネル非常口からようやくの思いで外に出た。ホッとした。周りは特に変化はなかった。待機していたバスで八戸へ。交通手段は何もないため、そこから取りあえず青森までタクシー。
青森に着いてまず腹こしらえをして、TVを見て初めて想像を絶する光景をその中に見た。どうなっているんだ? どうする・・? 列車はすべてダメ。 飛行機は? キャンセル待ち500番。周辺の様子を伺いながら、しかしやむを得ないのでキャンセル待ちに登録した。おそらく、旅行客はこのありさまだからキャンセルするに違いない・・こんな考えもよぎったらしい。幸い、飛行機に乗ることができ12日の深夜に帰宅できた。
私は、その時、埼玉県鴻巣にいて4時間待つも結局帰宅難民となり、近くの見知らぬ小学校で寒い一夜を明かしました。他の人たちも、皆さんビルにいて遭遇し、都内からもなかなか帰宅できず混乱があったが、地下鉄などが動いたり、既にあきらめて会社で寝たり・・。ただ一人だけ、和歌山から出席した女性はその時、和歌山の行きつけのジムのジャグジーに入っていたという幸運者もいました。
飲み会は、18時半からでしたので、日比谷界隈から内幸町までゆっくりと歩いて、ケイタイでパチリとした風景です。
内幸町交差点、向こうはフコク生命のビル。
国会議事堂方面を見る。右の建物は日比谷公会堂。
銀座方面です。
左の手前の黒っぽいビルは、みずほ銀行本店。その向こうに見えるビルが東京電力本社です。
音楽は、またまたパティ・ペイジです。
Julie London Fly me to the moon
早くに案内もあり、場所も予約済みのようであったが、こういう時期でもあり、
自粛すべきかの考えが幹事さんを悩ましたかもしれません。
しかし、大震災の安否確認などをしている時に、岩手県盛岡で事業をする社長や、東京の社長が出張でたまたま八戸への道中で、この大震災に遭遇した、大変な目にあった・・などの情報があり、ならば直接話を聞く場として無理が無ければ「やろう!」ということで、昨夕10数名が内幸町近くのレストランでやりました。
毎度一人ずつ近況などの報告をしていましたが、この度は「その時」どうしていたか? それでどのように対処したか?など・・それにまつわる体験談に、改めてそれぞれの処し方と受け止め方などが分かって、極めて有意義な飲み会でありました。2~3をご紹介します。
盛岡で事業をしている社長氏は、仕事の関係で東京品川に来ていた。丁度JR品川駅ホームに降りた途端グラグラっときた。さあ、それからとるものも取りあえず、連絡をとったり帰らなければならない手配をしたり・・。しかし、電話は思うに任せず、メールがやっと繋がる程度。
余震の中、列車、飛行機などあちこち手配をしたが、全くお手上げ状態であった。たまたま、泊まるところがあったからよかったが、ホテルなども取りにくい状態だった。盛岡まで20万でどうか?などタクシーの話もあったりしたが、結局、4日目にようやく秋田行きの飛行機が取れた。
秋田から盛岡までどうする?タクシーは確保できるか?ガソリンが不足していて、タクシーはあっても行ってくれるか? しかし、知己を頼って何とか確保できた。
やっとの思いで、帰ってきたが、関連社員の3名が死亡され、うち一人は発見されたのは3日後だったとか。釜石では、それはもう異臭が強くて言葉にもならない。
津波の犠牲者は、バラバラ死体のようで、血液と歯型を取ってはいるようだが、歯型を保存している病院なども流されており遺体確認は困難を極めている。
この大震災で、昔の同級生や知り合いなどに巡り合い、改めてその人のつながりのありがたさを痛感したそうです。
もう一人の、東京から八戸に向かっていた社長氏は、あと5分ほどで八戸というところ、長いトンネルの中ほどで異常が発生した。先ず、電気が消えたり不安定になり急停車モードに入り停車した。
その途端! ぐらぐら~と、今まで体験したこともない揺れに遭遇した。
「いったいこれはなんだ!」 と思っているうちに、余震が頻繁にあり、車内放送もおぼつかなく、どうもどこかが陥没したとか、大津波が出ているとか・・・。
2時間ほどして、列車の非常電源は、後2時間ほどで切れますので、身の回りの物は手元においてください・・とアナウンスがあった。はたして、その時が来た。
漆黒の闇。それもそのはず、夜で、トンネルの中の新幹線内の停電。携帯電話の薄明かりが頼り。
しばらくして、救援隊が到着した。お水、お弁当、毛布が支給された。お弁当は「はやぶさ弁当」で、細長い形状だったようだが、暗がりの中、どこが開ける口か、この弁当はいったいどのような弁当か?初めて手にするお弁当を口にするまで、あれやこれや・・・。
冷たいお弁当を食べ朝を待つ。8時頃、トンネル内だから明かりはわからないが、車外に出て、歩いた。ほどなくトンネル非常口からようやくの思いで外に出た。ホッとした。周りは特に変化はなかった。待機していたバスで八戸へ。交通手段は何もないため、そこから取りあえず青森までタクシー。
青森に着いてまず腹こしらえをして、TVを見て初めて想像を絶する光景をその中に見た。どうなっているんだ? どうする・・? 列車はすべてダメ。 飛行機は? キャンセル待ち500番。周辺の様子を伺いながら、しかしやむを得ないのでキャンセル待ちに登録した。おそらく、旅行客はこのありさまだからキャンセルするに違いない・・こんな考えもよぎったらしい。幸い、飛行機に乗ることができ12日の深夜に帰宅できた。
私は、その時、埼玉県鴻巣にいて4時間待つも結局帰宅難民となり、近くの見知らぬ小学校で寒い一夜を明かしました。他の人たちも、皆さんビルにいて遭遇し、都内からもなかなか帰宅できず混乱があったが、地下鉄などが動いたり、既にあきらめて会社で寝たり・・。ただ一人だけ、和歌山から出席した女性はその時、和歌山の行きつけのジムのジャグジーに入っていたという幸運者もいました。
飲み会は、18時半からでしたので、日比谷界隈から内幸町までゆっくりと歩いて、ケイタイでパチリとした風景です。
内幸町交差点、向こうはフコク生命のビル。
国会議事堂方面を見る。右の建物は日比谷公会堂。
銀座方面です。
左の手前の黒っぽいビルは、みずほ銀行本店。その向こうに見えるビルが東京電力本社です。
音楽は、またまたパティ・ペイジです。
Julie London Fly me to the moon