蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

粋(いき)の構造  (bon)

2011-06-05 | 読書
 若いころに読んだ本の中で、印象に残っている一つにこの本があります。哲学者、九鬼周造の「粋の構造」(1930、岩波)です。昭和5年の本ですからざっと80年くらい前の本ですね。お読みになった方も多いと思いますが、どのような内容であるか 私の記憶している・・というかインパクトを受けた中身かも知れませんがちょっと思い出してみたいと思います。

 粋(いき)は、日本特有の特に江戸における美意識の一つであった。わび、さび などと並んで日本の美的観念と共通部分もあるが、茶道の中で生み出された高踏的な「わび」「さび」に対し、「いき」は、庶民の生活から生まれてきた美意識であるという点に特徴があるという。「いき」には必ず異性に対する「媚態」が根本にあり、異性間の緊張がつねに存在している状態がいきの構成要素である「つやっぽさ」や「色気」を作り出すとしている。・・・「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。」・・・「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。」・・・つまり、異性がお互いにほのかに想い続けるその緊張感を持続させている状態であり、その状態が崩れて「例えば合体など」してその緊張がなくなってしまえば媚態もなくなるといっている。

 粋の反対語は「野暮」であるが、この異性間の緊張つまり媚態がほんのちょっとですぐにくっついて緊張が消滅するのは、粋でなく野暮かもしれない。また反対に、いつまでも緊張が続きっぱなしでどこまで行っても緊張だけというのもまた、「野暮」というものであろう。長すぎた春、とか わからずや・・。
 いき は、この媚態が根本にあるが、このほかに「意気地」と「諦め」の要素もあるという。意気地は、江戸文化の道徳的理想が反映されていて、「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」・・・江戸っ子は、宵越しの金はもたねぇ とか 武士は食わねど高楊枝・・などがそれである。「いき」は媚態でありながら、なお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。・・としている。 諦めは、一見粋とは関係がないように思えるが、「「いき」は垢抜け していなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。・・・「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。」などから見るように、諦めも粋の要素であることが分かる。

(ネットから)

 粋の構造として、九鬼周造は、図の様な一つの立方体を提案し、それぞれの頂点に意味を与えて、対角、平面などにもそれぞれ意味を与えている。
 粋の自然的表現として、視覚に対しては、「姿勢を軽く崩す」「薄物を身にまとう」とか「姿がほっそりしている」「薄化粧」「素足」などが挙げられており、いきの芸術的表現として、模様は縞柄、それも細い縦縞が良いとか 色も鼠色とか茶色系などがより粋を表現しているなど江戸文化の芸術を引用して細かく述べられていて面白い。
 
 私の断片的な理解と記憶から抜粋してみましたが、投稿記事の表現は書物から得た印象にほど遠いものとなってしまいましたがお許しを・・。しかし、最近思い返してみるとその分析の面白さに改めて気づいた次第でその片鱗をご紹介しました。


曲は、琴と尺八で お馴染みの歌・・・


美空ひばりの車やさんは粋な花町をテーマにしたものでしょうか。(mak)



石原裕次郎の粋な別れ がこのブログにぴったりかも・・・

コメント (1)
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