眼蔵会(げんぞうえ)とは、福井県永平寺で毎年芒種の頃(6月初め)に開催される“正法眼蔵”の講読会(勉強会)
のことです。
その第1回は明治38(1905)年といいますから、相当古くから連綿と続けられているのです。
正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)は、鎌倉時代初期(1200年~)の禅僧である道元禅師(曹洞宗の開祖)が
著した87巻に及ぶ仏教思想書で、物事の本質的な事柄を記述したもので、
“心身、自己の真実の姿、本来の天然無為のありようの事” とあります。
まぁ、物事の神髄、自己そのものを見つめる真実追及の書であり、これを紐解いて勉強するというのが、
眼蔵会なのですが、ここで、禅宗のことや道元禅師ことを述べるつもりは全くありません。
眼蔵会風景(ネットHPより)
私が会社人であった頃、“正法眼蔵を読め” とか、禅の語録である “脚下照顧(きゃっかしょうこ)” や
“直指人心(じきしにんしん)” などを教わったことを想い出したのでした。
物事の真理、とくに人の考え方の基本を見つめなおす事柄に示唆を与え、ビジネスにおいても、その組織の
運営においても “それら物事の原点” を改めて理解し、行動すべしとの自身の精神的立脚点と今後の
進むべき方向性を判断するための一つの指導要素であったのでしょう。
“正法眼蔵” の第一巻「現成公案」からの一節が紹介されているブログがありましたのでここに引用させて
いただきました。(http://spacenowhere.com/blog/)
『仏道をならふといふは、自己をならふ也
自己をならふとといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹(ごせき)の休歇(きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。
法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。』
先ほどの、禅語のb“脚下照顧” “直指人心” についても以下に引用しておきました。
『脚下照顧
自分の足元をよくよく見よという意。もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性を
よく見つめよという戒めの語。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことを
よく反省すべきこと。 また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。
「脚下」は足元の意。転じて、本来の自分、自分自身。「照顧」は反省し、よく考える、また、よくよく見る意。
「照顧脚下しょうこきゃっか」ともいう。』
『直指人心
直指人心とは、「直ちに人の心を指す」ということですが、人の心つまり人心と仏心とは、本来別の心では
ありません。 私たちの心の中には、もともと仏心が具わっているのです。
この事実を忘れているために、私たちはあれこれと迷ってしまうのです。そこで、直指になるわけです。
教育・思索とかいった、もってまわった方法を取らずに、一直線に「自分の心が仏心にほかならない」と指し示す
のが直指なのです。 無性である真実の自己、自分の心の中にある仏性を直ちに観てとれといわれるのです。
文字や頭で理解するのではなく、直截的かつ独自の方法で導くのです。このように、人間の本性つまり仏性を直指させる、直接体験させる方法を禅宗ではとりますが、これを直指人心といいます。
禅宗の特色とされる4つの言葉「不立文学・教外別伝・直指人心・見性成仏」のひとつ。直指とは、
喩えや因縁などの方便を用いずに、言葉や文字に頼らず、端的にそのものを指し示すことであり、
この場合には、人の心そのものを直指すること。』
また、余談ながら、こういう見方もされているのですね。
『正法眼蔵という、著書を学ぼうとしてしまう。
現成公案という、何か特別な教え、仏道らしいものがあると思ってしまう。
そうではないのです。
正法眼蔵、現成公案とは、この心身、自己の真実の姿、本来の天然無為のありようの事です。
あらゆる経典は自己の真相の説明書です。そのように学ぶべきものなのです。
自己を知る本当の手がかりがそこに記されているのです。』と。
むずかしいですね。