3日前に、ワールドカップがキックオフしました。
楽しみにしていました、日本―コートジボアール戦は時間帯も良く、テレビ観戦された方も多かったのでは
ないでしょうか?
幸先よく、先取点を取りながら、惜しくも逆転されてしまいましたが、これからしばらく楽しみが続きます。
友人のH氏からの配送記事に、このブラジルに関する話題が寄せられており、そのタイトルも
“ブラジルにおけるW杯およびオリンピック開催の真の意味” という、まさに現今のポイントを指摘している
記事でしたので、転載させていただきました。
次回2016年オリンピックの開催が決定しており、今開催されているW杯と・・、これまでとは違った、
大きなイベントとして注目を集めているブラジルは、今回の、W杯開催に対して、大規模な反対デモが繰り広げ
られていたり、必ずしも経済基盤や教育などの社会インフラが整っていないことを露わにしています。
BRICsの名称で脚光を浴びて既に久しいけれど、新しい世界経済の発展をけん引する国の一つ、
ブラジルの側面をこの機会に見直してみるのも、良いタイミングかも知れません。
(ウイキペディアより)
以下、記事を転載します。
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Dialogue online 2014/05/13(http://dialoguereview.com/)
ブラジルにおけるW杯およびオリンピック開催の真の意味
(The reality of Brazilian World Football Cup and the Brazilian Olympic Games)
By David Woods
【要旨】オリンピックのような大きな国際スポーツイベントを開催し、大会を滞りなく終えることは、いまや
先進国の仲間入りを認めるためのいわば踏み絵のようになってきている。だが、今月のサッカーワールドカップ、
そして2016年のリオデジャネイロ五輪の開催を控えるブラジルにとって、両大会の誘致はほんとうに
必要だったのだろうか。 世界、とくに西欧諸国は、自分たちの価値観に見合うかたちでの大会成功を
求めてはならない。 むしろ私たちは、南米の指導者たちが見せる新しいリーダーシップに注意を払うべき
なのではないか。ダイアローグ誌編集委員が提言する。
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ブラジルが2016年夏季オリンピック大会の開催国に決まった日は、南米諸国にとって重要な、記念すべき日
となった。それまで、広大な南米にあるいずれの都市にも、こうした重要な世界的イベントを開催する機会は
与えられてこなかったからである。
ブラジルにとって、オリンピック開催は大きな名誉と責任を意味するものだった。リオデジャネイロ開催が
決まった時、当時のブラジル大統領、ルーラ・ダ・シルヴァは感極まり、涙を流した。そしてその日、多くの
ブラジル国民も大統領と同じように自宅のテレビ前で涙したのは間違いない。
オリンピックの開催国に選ぶことはまさに、ずっと搾取され、無視され続けてきた地域や国に対し、世界が
発言権を与えようと決めたときに取られる手法だ。ブラジルがいかに搾取されてきた国であるかについては、
その歴史を見直せばわかる。
トルデシリャス条約を起点にブラジルの歴史を振り返る。1494年に締結されたトルデシリャス条約は、
ローマ教皇が引いた境界線に基づき、スペイン・ポルトガル両国の間でそれぞれが世界のどの地域に進出、
領土支配していくかを定めるものだった。この時点では明らかに誰もブラジルの豊かさに気づ
いていなかった。
そもそもコロンブスが西インド諸島に到達したのは、条約締結のわずか2年前のことだ。
1532年、マルチン・アフォンソ・デ・ソウザがブラジルで初めてポルトガル人入植地を築いた。彼は原住民を
強制労働させ、ポルトガルがヨーロッパ全土に輸出する資源を奪い取っていった。金、銀といった鉱物資源、
それにチョコレートやトウモロコシといったものである。
搾取されたのは資源だけではなかった。豊かな現地文化が踏みにじられ、カトリックの慣習が強要された。
当時のヨーロッパではアメリカ大陸は悪の大帝国と考えられていた。新世界がもたらした財宝の輝きへの興奮と
相まって、異教信仰を排除する狂気もはらんだ伝道精神が現地の文化と習慣を破壊していった。
1703年、ポルトガルはイングランドとメシュエン条約を締結。これが英国商人たちがブラジルの地に入り込む
きっかけとなった。メシュエン条約締結によってポルトガル産ワインは英国で優遇されるようになった。 しかしその一方でポルトガルはブラジルの市場を英国の製造業者に開放せざるを得なくなったのだ。
その結果、ブラジルにおけるポルトガルの製造業者は競争力を失っていく。しかも、ポルトガルに輸入される
英国産毛織物の対価として、英国はポルトガル産ワインでなくブラジル産の金を要求した。
20世紀に入ってもブラジルが外国から支配される傾向に変わりはなかった。共産主義国と化していく
南米諸国に対抗するため、米国はCIAを通じてコンドル作戦を支持する。コンドル作戦とは、ブラジルを含む
南米各地の右派独裁政権が公式に携わった情報収集活動と、敵対者の暗殺を含む政治的抑圧および
テロ活動である。
ブラジルは1964年から1985年まで軍事政権下にあった。ジョアン・グラール率いる左派政府と敵対する
武装勢力がクーデターを起こしたことで始まった軍政は、ジョセ・サルネイが民主主義的手続きを経て
大統領に就任するまで、21年間続いた。
1980年2月には、学者や知識人、組合リーダーたちによる急進的な左派政党、労働者党(Partido dos
Trabalhadores: PT)が結成された。 このPT党首だったルーラ・ダ・シルヴァが2002年の選挙で勝利を収め、
翌年大統領に就任した。
ルーラ大統領は2期8年間政権の座にあったが、1期目の4年間で、2000万以上の人々を極貧層から
脱却させ中流階層へと押し上げる政治モデルを作り上げ、ブラジルを世界第8位の経済大国へと成長させた。
オリンピック開催決定は、同大統領への “成功報酬” ともいえる。ブラジルの世界に対する影響力が
認知されただけでなく、ブラジル大統領が示した新しい指導者モデルが世界に認められたことの証しとなるもの
だからだ。大統領が示したのは、貧困層の救済に目を向けるという南米独自の新しい政治モデルである。
だが、オリンピック開催の決定によってブラジルが世界から認められたことは、同国にとって真に意義ある
ものだったといえるのだろうか。オリンピック開催の責任を負うブラジル国民はどう思っているのか。ブラジル
国民による直近の抗議行動をみていると、彼らはオリンピックやワールドカップの開催国であることを
名誉には思っていないようだ。それどころか、実は正反対ではないだろうか。
ブラジルにとってオリンピックやワールドカップの開催とは、(国外からの無言の)強要を意味する。すなわち、
同国はこれまで経験したことのない現代的な方法でイベントを作り上げなければならず、しかも近年のオリン
ピック開催国である英国や中国、オーストラリアと同じレベルの社会インフラ、金融、組織管理能力などが
世界中から期待されている、ということだ。
さらに言うならば、ブラジル社会でも自分たちと同じようなマネジメントやリーダーシップが活用されるべきという
先進国の目線こそが押し付けであり、無用の期待ではないか。マネジメントやリーダーシップは、ブラジルに
とって必ずしも正しいモデルではない。
ルーラ大統領は元来、ワールドカップやオリンピックの開催はブラジル国内の貧困層に教育機会と基本的な
保健インフラを与えるきっかけとなる、という考えを抱いていた。しかし、イベント開催にあたって国際社会が
ブラジルに押し付ける期待は、こうしたルーラ大統領の考えを支持するものとはいえない。
ルーラ大統領と、史上初の南米出身ローマ教皇であるフランシスコ教皇(本名ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)の
間には類似点がある。フランシスコ教皇を見ていると、カトリック教会のような西洋形式の世界的組織の中に
おいて、リーダーシップのあり方が変化しているのを感じることができる。
フランシスコ教皇は、カトリック教会は社会の極貧層にこそ優先順位を置くべきだと公言。自身初の使徒的勧告
「Gaudium Evangelii(福音の喜び)」のなかでは、教会はこれまでの官僚的で教義的なモデルから、
信者や若者に開かれた社会的なモデルへ必ずや移行しなければならない、としている。
私たちは、南米の指導者たちが(従来の西欧社会の価値観とは異なる)新しい考えを持ち、世界の政治に
影響をもたらすことを受け入れるべきだ。そして、現地の規範やリーダーシップのあり方にそぐわないかたちで
国際イベントの開催を押し付けるのをやめよう。(西欧的価値観である)責任やマネジメント、リーダーシップ
といったものを強制することのないよう、十分に注意を払うべきなのだ。
コメント: 我々は、ここしばらくの商業主義的なオリンピックのかたちに慣らされ過ぎているのかもしれない。
オリンピックやW杯を純粋なスポーツイベントとしてみれば、ことさらに立派なスタジアムなどは必要ない。
フェアな競技ができる最低限の施設と、治安の維持ができてればいい。開催国がアピールすべきは、経済的に
豊かになった国の姿ではなく、その国の伝統的な文化や産業の“質”なのではないだろうか。それが開催“後”に、
観光や輸出に良い影響を及ぼし、国民の生活を豊かにすることにつながるはず。本記事の言うように、
開催国以外の国は、これまでの五輪やW杯につきまとうステレオタイプな価値観を押しつけるべきではない。
多様性を受け入れる視点が重要なのだろう。
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