良くご存知の、あの日露戦争の乃木大将です。
旅順攻撃で多数の戦死者を出したこと、西南戦争の時、敵に軍旗を奪われたことなどを悔やみ、
大正元年(1912年)のこの日(昨日9月13日)午後8時頃、静子夫人と共に自決されたのでした。
この日は、明治天皇の大葬が行われた日でした。 満62歳だったそうです。
乃木将軍が日露戦争から凱旋した1906年新橋駅では、他の諸将とは異なり大歓迎ムードであったそうです。
難攻不落の旅順要塞の攻略、二人の子息を戦死させたことなどから歓迎ムードは一段と高まったそうですが、
それに反して、本人は旅順攻撃における多数の将兵を戦死させた自責の念から、「戦死して骨となって
帰国したい」、「日本へ帰りたくない」、「蓑でも笠でもかぶって帰りたい、」などといい、
凱旋した後には各方面で催された歓迎会への招待もすべて断ったとそうです。 明治天皇に日露戦争の
復命を奏上した時も、旅順での多量戦死者を出したことを詫び、自刀を申し出るも、天皇から
「~今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」との趣旨の
発言があったことからこの日を選んだのかもしれません。
乃木希典大将
(ウイキペディアより)
世界的にも賞賛されている「水師営の会見」では、敵将ステッセルへの配慮を重んじた紳士的会見に
その人柄を見ることが出来るのです。 ステッセルらロシア軍人の武人としての名誉を重んじ、会見写真は
一枚しか撮影させず、「敵将(ステッセリ)に失礼ではないか。 後々まで恥を残すような写真を撮らせる
ことは日本の武士道が許さぬ」と優遇したとあります。 現、ロシアの傍若無人ぶりを、この事実を見て
改めてもらいたいですね。 乃木将軍は多くの兵士からも慕われていたそうで、また教育者でもあり、
明治天皇は後の天皇(昭和天皇)が通うことになる学習院の院長に彼を任命したとありました。
近衛文麿(総理大臣)などの師でもあったそうです。
大義のために、ただひたすらに行動し、多くの人から人望を得、献身的とも思える偉人は、現代において
当てはめると誰が想像できるでしょうか。 明治維新で活躍した志士たちもそうであったようですが、
自己の財産のためや身の保全のためが最優先される今日の為政者を思うとき、時代が違うといえばそれまで
ですが、あまりの落差に愕然とするのです。
このような人(乃木)も、若いころは遊興におぼれ、30歳あたりからドイツ留学するまでの約10年ほどは、
放蕩三昧で自宅に帰ることも少なく、夫人との祝言の時も遅れてくる始末であったそうです。
そんな将軍が、留学から帰国後は、蕎麦をご馳走とするほどの質素倹約の人となり、人望を集めた
魅力の人となられたのでしょう。 忠孝・質素・仁愛の志が厚く教育者としてもすぐれた人物として
評されているのですね。
9月13日は、赤坂の乃木神社では、しめやかに墓前祭が行われました。
乃木神社
(ウイキペディアより)