子どもの頃、学校で習いました。
看護の天使・・ナイチンゲールは、よくご存知のことと思います。 フローレンス・
ナイチンゲールは、1820年5月12日に生まれました。誕生日の5月12日は「国際看護師の
日」に指定されています。 1860年に、ナイチンゲール看護学校を設立しました。
ナイチンゲールは、ウイキペディアに『イギリスの看護師、社会起業家、統計学者、
看護教育学者。近代看護教育の母。病院建築でも非凡な才能を発揮した。クリミア戦争
での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。』とあります。
裕福な家庭で、両親の2年とも3年とも言われる新婚旅行の途中、フィレンツェで生ま
れ、名前をフローレンス(フィレンツェの英語読み)といい、高い教育を受けるのです。
フローレンス・ナイチンゲール (34~5歳頃)
(ウイキペディアより)
1854年にクリミア戦争が勃発すると、前線における負傷兵の扱いが悲惨な状況であ
ることを知り、彼女自ら看護婦として従軍する決意を固めるのでした。
ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて病院に向
かったのです。現地の兵舎病院は極めて不衛生であり、必要な物資も供給されておらず、
さらに看護婦団の従軍を拒否したのですが、ナイチンゲールらは、病院の便所掃除が
どの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって
病院内へ入りこんでいったのだそうです。
当時、誰もしなかったこれらの仕事を進めるうち、兵舎病院内の衛生環境が改善され、
兵士死亡率は激減したそうです。 死因の大半がこれら非衛生が原因だったのでした。
彼女の献身的な活動とその成果は、人々から高く評価され次第に名声が広がって行く
のです。
クリミア野戦病院での様子
(ウイキペディアより)
看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来するとありました。
しかし、本人は、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために
戦う者である」と述べるとともに、「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という有名な言葉
を残しているように、「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」
という考えがその基本にあったのですね。献身的で優しい奉仕活動の基には強い信念と
活発な行動があったのです。
クリミア戦争従軍から帰った37歳(1857年)の時に、心臓発作で倒れ ずっとベッド
での暮らしとなり、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となった、とあります。
1910年、90歳の生涯を閉じたのです。 生涯独身を通したそうです。
なるほど、改めてナイチンゲールという人が当時(まだ江戸時代に)活躍され、近代
看護・医療の基本を樹立されたことが分かりました。 すごい人だったのですね。