旧暦の4月末日が、足利尊氏の命日とあり、新暦(グレゴリオ暦)では、1358年
6月7日にあたります。享年満52歳とあり当時としてはまぁまぁの年齢でありますが、
大変な野心家ですが人望もあり政治的にも優れた人物であったようです。
しかし、策略、陰謀の渦巻く世であるとはいえ、情勢把握、人脈形成、個人的
遺恨などにより節操なき体制主義的な面も強く、いわゆる世渡り上手で、室町幕府
を開いた初代征夷大将軍(在位1336~1358)であったようです。
足利尊氏
(ウイキペディアより)
もともとは、鎌倉幕府の御家人として幕府方の武将であり、後醍醐天皇の倒幕を
蜂起した元弘の乱(1331年)では、鎌倉幕府の命により後醍醐天皇の拠点(笠置)
や楠木正成の拠点(下赤坂城)を攻め滅ぼし、この乱を失敗に追い込み功績をあげ、
足利氏の名声は高まるのですが、この時、父の喪中にも拘わらずに出兵を命じられ
たわだかまりを幕府に抱くようになるのです。
そして、いよいよ1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出して3度目の倒幕計画を起こし、
再び足利氏は幕命を受け出兵するのですが、途中反旗を翻し六波羅探題を倒して、
関東での新田義貞の反乱に乗じて鎌倉幕府を倒すことになるのです。
後醍醐天皇 念願の建武の新政(1333年)樹立に貢献した足利尊氏は、それまでは
敵側にいたにもかかわらず、建武の新政の勲功第一とされるのです。
しかし、念願の建武の新政は、順調には推移しなかったのです。武将の不満が
募るほか、勲功第一の尊氏は、征夷大将軍の官職を望みますが、後醍醐天皇はこれ
を許さなかったことから、鎌倉幕府再建を目指した反乱軍の沈静に向かった尊氏は、
今度は逆に天皇に対して反旗を翻すこととなるのです。
1336年にはあの、「湊川の戦い」で、新田義貞、楠木正成の軍を破り京都を制圧
するのです。(拙ブログ、“楠公祭”(2014.5.27)に掲載しています。)
後醍醐天皇は、吉野に退いて南朝を立て、尊氏らは京都に北朝を開き、約60年に
わたる南北朝時代は、ようやく1392年に南北が合一されて室町時代へと歴史は進ん
で行くのです。
拙ブログ「後醍醐天皇」(2015.9.26)の記事にもありましたが、『いつの世も、
権力を求めての争いは、その形は違え、世界中どこも同じ構造を繰り返している
のです。そして、その根源には、権欲、財欲に対する人間の本質があり、時代の
流れと共に手段、構図は変わっていますが、つまるところは同じなのでしょう。』
最近でも、世界各地で権力闘争があり多くの犠牲が払われています。宗教的な
意味を帯びた争いもありますが、これとても つまるところは同じなのかもしれま
せん。
現状の日本は、NHK調査(4/8)では 政権支持率は23%と低迷を続け、不支持率
は58%とあり、往時の盤石地盤から急速に不安定な政情の気配が漂い始めています。
来る3つの衆院補選の行方も気になるところですが、政権与党内の議員の動きも
ざわつき始めているかもしれません。
足利尊氏の墓(京都府 等持院)
(ウイキペディアより)
足利尊氏という人の一面だけを見た感想なのかもしれませんが、この時代の一部
を捉えただけでも、いわゆる力学の構図は不変であるということのようですね。
足利尊氏の人生と最期(死因)を分かりやすく解説【六波羅探題滅亡/建武の新政/室町時代のはじまり/南北朝時代のはじまり/観応の擾乱】