2010.10.16、清水谷東京支部同窓会総会が、美しい清澄庭園の大正記念館にて開催され、60数名の東京地区在住の同窓生及び各地からの貴賓の方々が一同に会し、楽しい一時を過ごしました。
14年間務められました中島会長、および岡本副会長が退任され、新役員が選定されました。南校長が現況報告と後輩の高校生の活躍ぶりをビデオで紹介され、参加者は懐かしい昔の自らの姿に重ねて、清水谷高校への思いを新たにされました。
写真はその後、10期生が集まり近くの居酒屋「くし家」で、一杯呑みながらの談笑の一こま。
この1年間の間に心臓関係の病気になられ快癒された林さん坂本さんも元気にご参加されました。
清澄庭園について:
江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の別邸跡が享保年間に、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり庭園が形づくられた。
明治11年、岩崎弥太郎が、明治11年荒廃していた邸地を買い、社員の慰安や貴賓所として庭園の造成を計画したが施工半ばで逝去し,その後を継いだ弟の弥之助が明治24年に「深川親睦園」として竣工後も園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成した。
関東大震災では庭園内の西洋館・日本館を全焼したほか、庭園内の古木を始めとした樹木が壊滅的な被害を受けた。
その後、管理者であった「三菱」は「震災復興はまず住居なり」との信念で、敷地の一部に製材所をつくり資材の供給を進め、敷地を多に転用を企画した、ここで東京市公園局長井下氏が廃墟になったとはいえ、庭園の地割や庭石の雄大さを強調するとともに、緊急避難所の重要性を溶いて庭園の存続と当初の計画とおり東京市への敷地寄付を依頼した。
翌大正13年破損の少なかった東側半分を公園用地として東京市に寄付。
昭和7年7月に庭園公開にいたる。
大正記念館
昭和2年2月新宿御苑にて行なわれた大正天皇の葬場殿を昭和4年移設したもの。
しかし、最初の建物は戦災で昭和20年2月25日焼失したため、昭和26年11月貞明皇后の葬場殿の資材を下賜され、昭和28年7月復元竣工した。
平成元年4月に全面的に改築されました。
私はほぼ一年ぶりにみんなの顔を見れたのでとてもうれしかったですよ。健康っていいね。みんなの言くそうな顔を見てまた一段と。小島さんが元気だったのを見て一安心。坂本さんもペースメーカーの手術がうまくいったみたいやし、こうして集まるとみんなの状況がよくわかるのでやっぱり同窓会っていいね。
なにはともあれ中島さん、岡本さんご苦労さんでした。少しは神経の疲れをとってください。お疲れでした。来週はよろしく頼みます。楽しみに、楽しみに開いています。橘田さんまたお世話になりますがよろしく頼みます。
皆さんありがとう。
すご技ですね。RINさんもとのようになって何よりです。
長年の皆さんのご支援をありがとうございました。
こころは、続く収穫祭へと飛んでゆく~
bon
揚げ物ばかりでしたが、他のものを食べてみたいと思ったぐらいです。
携帯で写真を撮り、帰りに電車の中から1枚だけメイルに添付して投稿しましたが、他の写真は後から携帯からメイルで追加したものです。
アップ有り難う。ところでyahooにあげられた写真をこのブログのフォトチャネルに追加でアップしてくれませんか