子曰、誦詩三百、授之以政不達。使於四方、不能專對、雖多亦奚以爲。
今日は、3日に大江健三郎がなくなっていたことが報道された。ついに我々は大江後の世界に突入した。わたくしは物心ついたら既に三島が死んでいて、二十年間生きた結果、今度は安部公房や中上が死に、――近代文学もついにおわったか、いやまだケンさんがいるとおもって三十年生きた。で、ついにケンさんもいなくなった。世の中は、どんなに人との関係性が重要でもヒーローも必要である。ケンさんはヒーローであった。
「小説の主脳は人情なり」。「人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にして、所謂百八煩悩こ是れなり」、これを実現しただけではない。政治と文学の統一に於いて実現したのである。三島の場合は古今集や能の世界にほんとに片思いに惚れていた。で、この世からおさらばして古典的死を以て古典の世界の仲間入りを果たした。――とても面倒だ。コンポん的に、「心中」の文学に自ら参入した太宰と一緒で虚実を飲み込み苦悩する死に方だ。んで、しかしながら、大江の場合はあまりに現実の煩悩がすごすぎて、憲法九条にも情欲を感じてしまうのである。安部公房はえーと、政治から撤退し箱の中から看護婦か女優を覗く。
大江だけが政治文学と切り離せない「小説神髄」を本質的に飲み込んだ。
大江の「九条の会」的な「いいこちゃんぶり」を好きなひともいて、よくわからんが、「新しい人よ目覚めよ」なんか、は文学キライとかいうてた人をも感激させるものであった。どうして感激したのかはしらん。障碍者の息子とともに文学をした。たぶん、この関係性にすら情欲があった。同世代の谷川俊太郎に、たしかシダと性行為みたいな詩があったけど、やっぱおれは自涜で天皇陛下がつい現れちゃう大江の方が、酒飲んでるときも読めると思う。大江健三郎はあれなんだよ自涜後のシーンを
おれの体のなかの晴れわたった夏の真夏の海で黙りこんだ幸福な裸の大群衆が静かに海水浴しているのがわかった
とか書く(「セヴンティーン」)男だ。普通にお笑いの作家である。大江のおもしろさは、通俗性というか幼児性というかなんというかを排除しては語れない。純文学は通俗小説でなければならないみたいな理屈はむかしからあり、みんなわりとできないんだが、結局、大江みたいなあり方があるのだ。「小説神髄」的な仕掛けをマジメに信奉しつつ壮大なボケをかますやり方である。しかし、これは大衆的というより政治的ボケである。上の論語のように、詩を三百も知っていながら、政治をやらせてだめ、外交官として応対もできない、それで詩を多く知っていてもなんか意味あるの?という嫌みを、――少年の自慰行為としてのテロ文学で黙らせるのが大江健三郎である。
そういえば、このまえ大江健三郎の故郷に寄ってみた。彼の文体は意図的にぐにゃぐにゃにつくりかえられたものだと思うが、山を人工的に這ってゆくアスファルトの道路みたいなものだ。反自然的な自然。この人の表現する意図された閉鎖性は、実際の物理的な閉鎖性を知っている人間のやることである。彼の育ったところはそういう所だった。一方、わが木曽は、藤村の言うように、山の中だけれども、街道や川に貫かれたチューブのようなものでちょっと違う。大江のやらかす閉鎖性はなんか妙な開放感があって不思議だけども、やっぱ戦後の開放感なんだろうか。。しかし、木曽は相変わらず、戦後も殺人事件とか江戸のちゃんばらの舞台でほんとに『夜明け前』かというね。。。。いま思いついたんだが、大江のえがく閉鎖性のどことなくただよう楽観的なところは、四国の山国から出発しているところが関係あるんじゃないだろうか。四国はちょっとがんばると他の藩にゆかなくても島から出られるからな。信州だとどこに行こうと他国にいかんきゃならん。
誰か(柄谷だったか?)、大江はいまだにファックスに驚き、電子レンジで被爆するみたいなこという人だと言ってた気がするが、だからそこが彼の良さだって。おれもファックスの文字が電話線の中をもがきながら這っていったり、電子レンジで日本人全員被爆とかそういう妄想するからな。――それはわたしの妄想であった。わたくしは、木曽的にチューブの中を這っており、外の世界の殲滅をゆめみる田舎者であった。
あの人とあの人って同じような傾向にあるよなと思っていたら、ほんとに統一戦線を結成し、お互いの問題を平凡にしていってしまうのはよくあることであるが、まあ昔からである。しかし、ケンさんは、その平凡さにも天皇にも好きな女にも平等に情欲を働かすおかしな人であった。だから、他人に合わせて本当に平凡にはならなかった。そのかわり、その平凡さを手放すこともなかった。九条は平凡な理念である。それは「意図的」に「不断に」それを「愛」する人によって輝く。平和主義、いやそれへの愛も「百八煩悩」の一つなのである。
むかしテレビで大江は、若者は希望を持つんじゃなくて、明るい希望なんだと思い込むべきだ、みたいなことを言っていた。それと九条の件は同じ事なのである。その思い込みも我々の煩悩だということだ。
グループワークなどでおしゃべりをする活動での効果として、話を正確に聞けなかった場合への指導が難しくなるというのがある。口頭での簡単な連絡事項が伝わらなくなっているのはそのせいもあるかもしれない。文字でも伝わらんが。解釈の主体は必ずしも解釈者にあるわけじゃないという平凡な真理が分からなくなったのは、平凡さに対する情欲をわたくしたちが失ったからだ。しかし、下(「セブンティーン」)のように、それは激しく平凡で愚かな情欲である。これらの言葉に解釈が必要であろうか。我々は、こういうものに、仮に非凡であってもくだらない言葉をかけられるのか。
ああ、生きているあいだいつもオルガスムだったらどんなに幸福だろう、ああ、ああ、ああ、いつもいつもオルガズムだったら