モッポ(木浦)市は、古くから海上交通の要衝だったようだ。そして李氏朝鮮時代末期の1897年に開港場となりいっそう発展した港町である。日本統治時代は日本や中国との交易で、朝鮮半島有数の大都市となったが、近年は貿易港としての役割は低下しているという。
しかし植民地時代の和風建築や近代建築が多数残っており、訪れる人も多いという。歴史も古いので、日本でいえば神戸などにあたるのであろうか。
木浦は、全州から光州に行く途中でのたいへん短い時間しか滞在できなかった。
山が海にせまり、丘などの起伏の多い港町である。ユダルサン(儒達山)は是非登ると良いといわれ、また勧められたのは旧日本領事館と木浦近代歴史館(旧東洋拓殖株式会社社屋)であった。
海抜288mのユダルサンは木浦駅からタクシーでも初乗り運賃で登り口の講演に着いてしまう。木浦開港110年の石碑が登山道のはじまり。少し行くと秀吉の文禄・慶長の役=朝鮮出兵(朝鮮半島の人々は両方を合わせて壬申倭乱と呼称するようだ)の時に秀吉軍に水軍を率いて戦った李舜臣の巨大な像が港を見つめている。
ユダルサンは鋭い岩峰で登るにしたがい岩山の登山道がどんどん急傾斜になり細くなる。便所はいくつも完備され屋根着き展望台も要所要所にあって気持ちの良い散策が出来る。最後の登りは岩肌を削った急で狭い階段が続き、冬に凍結したら運動靴では危ない道である。
頂上からは木浦の港や多島海の一部が俯瞰できる。また形の全長4キロ以上の木浦大橋が二本の巨大な柱から羽を広げたように見える。
いくつかの登山道があるが、登ってきた道を下って旧市街と商店街を抜けて駅へと急いだ。商店街の入り口のパン屋さんでコーヒーを飲みながら久しぶりにパンで昼食。駅前ではイチジクをリヤカーで箱売りをしていた。食べたかったが、一箱に13個入りでは二人では食べきれないので断念。そのまま歩いて旧日本領事館と木浦近代歴史館へ急いだ。
旧日本領事館は建物としては美しい。日本にあっても確かに近代建築の遺産として保存されると思う。しかし港に面した小高い丘の上に建つこの建物、確かに人を睥睨するような急な階段の上におさまっている。旧日本領事館の内部は靴を脱いでの見学となるので、時間が無く外部からの写真撮影だけで諦めた。
その下にかなり古びた感じで旧東洋拓殖株式会社の社屋が無料の歴史館として解放されている。植民地時代の木浦周辺の写真が数多く展示されていた。植民地時代の無計画な乱伐で禿山となってしまったユダルサンなど痛ましい風景には言葉を失った。当時は日本の森林もかなり乱伐されたが、これほどまでにはひどくはならなかったと昔聞いたことがある。
わずか10分ほどで内部をひとまわりして慌てて駅にもどり、光州行のKTXに乗車した。
最終日の朝、扶余からはソウル市内までは高速バスに乗った。約1時間半のバス旅。例によって市内の走行はとても揺れる。高速道路ではシートベルトが義務化されているが、市内ははずしても構わないのだが、私は怖くてシートベルトを外す気持ちにはなれなかった。
夕方までの時間を利用して、街中でマントゥ。巨大な蒸し餃子である。一皿にこれが6個盛られており、とても食べきれる量ではない。私はスープ入りのものを頼んだら4個入り。これでもお腹がはちきれそうになった。
ソウルでは初めて李朝時代の王陵跡を訪れた。ソウル近郊の王陵跡は世界遺産として整備されている。いづれも広大な敷地に円墳が点在している。
訪れたのはこのうちの一つ、第9代成宗の宣陵・第11代中宗の靖陵・成宗の妃貞顕王后陵の3つの量のある東三陵公園。虎・羊・馬各弐2体の石像、各2体の文人・武人像が円形の陵墓を取り囲み聖域をなしている。その前に祭祀空間、祭礼のための進入空間が配される統一した様式らしい。
都会の喧騒の中の静かな空間となっていた。都市内の貴重な緑地としての役割も果たしていた。現在も祭礼が挙行されているとのことである。
この公園を見た後地下鉄駅まで30分ほど大分疲れた妻に合わせてゆっくり歩いてからキンポ空港に向かった。
今回で5回目の韓国訪問の報告はとりあえずこれで終了としたい。