10月8日、上野の森美術館で「ボストン美術館浮世絵名品展 北斎」を見てきた。北斎・広重というのはとても人気が高い。特に風景画は民俗学的にも歴史学的にも価値が高いといわれる。
私は以前に北斎の風景画には、働く人がとても生き生きと描かれている、ということを記載したことがある。私が北斎の風景画を気に入っている大きな理由である。都市の発展、商人だけでなく、町人と云われる職人やさまざまな職業に携わる人々の力や意向が政治や文化や経済に大きな役割を果たすようになってきた江戸時代後期を象徴するように北斎や広重が活躍したのではないかといつも思っている。
北斎・広重の風景画には旅を楽しんだり、それが当たり前になって人々の往来が激しくなった時代を反映して、旅人がたくさん登場する。また彼らの旅の友としての北斎・広重の版画が重宝されたようである。
北斎の場合は、旅人だけでなく、仕事に従事する職人、町人、商売人が旅人以上に大きな役割を担って、その絵に登場している。
そんなことを再度確認したくて訪れてみた。
まず最初の感想は展示されている作品の色の鮮やかさにビックリした。「公開されることがあまりないので保存状態が極めて良好」というのが大きな特徴と宣伝もされているとおり、これまで見たことのある同じ版画作品でもどれも色が実に鮮明である。そして作品点数が実に豊富で長い北斎の画歴の大半を網羅しているという。北斎のこだわった「藍」が大変鮮やかである。
チラシの表の「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」も富士山と大波が主題だろうか。私は波に翻弄される小舟を漕ぐ水主が北斎の描きたかったテーマだと信じている。
確かに富士山めがけて砕け散ろうとする圧倒的な力を誇示するかのような形の大波と、端然とそれを受けようとする泰然とした富士山の位置関係は見逃すことができない。
しかし同時にその富士山の前を突っ切るように登場する二艘の舟は波に翻弄されて沈んでしまいそうであるが、漕ぎ手8人が一体となって身を伏せている図は、大波の力をはねのけようとすらしている。旅人と思われる頭が二つ、これはとても頼りなげであるが、漕ぎ手の息がそろっている間は沈みそうにない舟である。左を進む漕ぎ手の描かれていない舟は何となく心もとない。漕ぎ手が描かれていないからである。
この二枚の絵、左は初期のころの1804年の「羽根田弁天之図」であり、右は27年後に描かれた有名な「富嶽三十六景遠江山中」である。羽根田では真ん中に誇張された「へ」の字の橋、遠江山中は板を作成中の作業風景だが左上から右下に向かう対角線に近い斜線を強調しているところが構図的には似ている。同時にどちらも働く人のが大きな役割を演じている。初期の「羽根田」ですでに橋の手前に漁師と櫂を担ぐ人、貝を採る人なども描かれ重要な登場人物である。女性も旅姿ではない。「遠江山中」は描かれている人はすべて大工である。
前者は西洋画の模倣的な摂取の跡が露骨だが、後者はそれを取り入れたうえで独自の誇張表現で迫真的な絵画に仕上げている。
これは「富嶽三十六景 本所立川」。左の塔のように誇張された積み上げた材木と、右に立てかけられてある長い材木(竹?)を軸にその間に緑色の斜めに置かれた材木の一群がポイントとなっている。それぞれの要所に3人の大工ないし木遣りが効果的に配置され、右端の富士山を引き立てている。この絵も3人の職人の絵といっても通用する絵である。
コメントで川瀬巴水の「東京十二題 こま形河岸」を彷彿とさせるとの指摘があった。私も同感である。北斎は冬に向かう動きのある働いている様、巴水は静かな夏の休息の様、対照的である。巴水は材木の縦の林立を全面にして横のラインは馬と寝ている人にした。これも面白い構図である。巴水はこの北斎の絵を念頭にしてあの作品を作ったのだろうか。
「諸国瀧廻り」でも同じ傾向にあり、この「東都葵ヶ岡の滝」でもぼて振りとそれらしき人が3人、箒で道を掃いている人も町人である。武士と中間が2人、旅人が2人という具合で旅人は少ない。
「諸国名橋奇覧」のシリーズも同様の傾向である。
さて趣きを変えて、今度は花鳥版画にうつるが、私がもっとも惹かれたのはここに掲げた1833年の「芥子」。芥子は普通は真っ直ぐに伸びた姿が美しい。たぶんこれは強い風に吹かれている芥子である。江戸絵画の全般を見渡したことの無い私の独断かもしれないし、また誤った感想かもしれないが、このように動きのある花を描いたのは実に革新的な筆法だったのではないかと思っている。
他の花鳥図が虫や鳥を描くことによって「動き」を添えているが、この「芥子」は左から右に向かう風で「動き」を添えている。それが気に入った。
もう一枚は、1832年の「百物語 さらやしき」。百物語は当時はやった「怪談会」のことで、怪談をひとつ終わるごとに燈明を消していき、最後の明かりが消えるときに怪異現象が起こるといわれた。「さらやしき」は惨殺された下女のお菊が夜に井戸から現われ、皿を数えるという有名な話。
このシリーズの妖怪、怨霊はどの絵もどこかおかしみを誘う絵であるが、これもこれから数えはじめるのか、途中で草臥れたのか、霊気を吐きながら上目遣いで一息入れているとしか思えないポーズである。しかもろくろ首のように首が長くお皿を首にかけている。
若い頃はじめてこの絵を見て、私はキセルをふかして一息入れているろくろ首だと信じていた。遊び心満点の絵である。「怪談会」も北斎の手にかかるとこのように滑稽味も付加される。
北斎最晩年の「百人一首」のシリーズも職人や働く人、農民が主役である。左は1835年作で猿丸大夫の「奥山に紅葉ふみわけ啼く鹿の声きくときぞ秋はかなしき」による。右は同じく1835年作で定家「こぬひとをまつほの浦の夕なぎにやくや藻塩のみもこかれつつ」による。
前者は、歌に合わせた図柄は、紅葉と左の山の頂上の鹿2頭だけである。左から画面中央にいる10人の女性は、山仕事を終えて右上の山里の家に戻るところであろう。雅な恋の予感の歌は、山里の暮しぶりの世界に転換している。百人一首の雅な宮廷人の世界から、農民の逞しい世界に転移している。
定家の歌による「藻塩」に至っては、宮廷人の恋の歌の片りんすら描かれず、製塩作業だけが描かれ、歌との共通点は藻塩を焼く煙だけになってしまった。
芭蕉が雅な連歌の世界を、俗語を使って江戸時代初期に勃興してきた商人の世界を基礎とした俳諧の世界を作り上げたように、江戸時代末期の北斎は裕福な商人の世界よりもさらに逞しく新しい文化の担い手、経済の支え役となってきた町人・職人を描くことで絵画の新しい息吹、可能性を切り開いたように思える。
また北斎の風景画は、旅人、職人、町人に限らず点景としての人物が魅力的である。顔も不鮮明で表情はわからない。しかしこんな生き生きした仕草の人物はいない。
それが現代も人々の心を捉えて離さないし、また西洋絵画に大きな影響を与えた要因でもあるとあらためて思い至った。